愛媛県展望西条市紹介 西条藩の成立 西条市は現在人口約11万で、愛媛県下では松山市、今治市、新居浜市に次いで4番目になります。 ところで、歴史的には比較的目立たぬ存在であった西条市が、かつてこの地を本拠とした戦国武将・金子元宅(もといえ)のお... 2021.06.14愛媛県展望
愛媛県展望新居浜市紹介 新居浜市一帯は奈良時代、神野郡と呼ばれましたが、平安期に新居郡となり、その後は海岸に近い北部を新居浜と呼ぶようになりました。 鎌倉時代からは西条市と同じ金子氏の傘下で繁栄しましたが、天正13年、羽柴秀吉の攻撃をうけ金子氏は滅亡... 2021.06.13愛媛県展望
愛媛県展望宇和島市紹介 「宇和島は世界有数の美しい町だと思う。四方に山があって、オーストリアのインスブルックを思わせる。段々畑になっている宇和島の山手はさらに美しく、そこから海も見える。港はフランス南部のサン・ジアンド・ルースに劣らず、絵のように美しい。」 ... 2018.06.03愛媛県展望
愛媛県展望大洲市紹介 大洲市は愛媛県の南にあって、肱川流域の大洲城を中心に発展した町です。風光明媚な盆地で、古い町並みが保存されているところから、しばしば「伊予の小京都」と呼ばれています。 大化の改新以後、大洲は伊予国宇和郡に属していましたが、平安初期... 2018.05.20愛媛県展望
愛媛県展望今治市紹介 今治市は県の東部、瀬戸内海に向かって突き出した高縄半島の先にできた港町で、タオルと造船が盛んな臨海工業都市です。特にタオルは全国一の生産高(60%以上)を誇り、造船も近世の帆船の時代から盛んに建造され、地元の海運業と結びついて、中小... 2018.05.14愛媛県展望
記憶に残る伊予人近江聖人・中江藤樹 9歳で、両親と別れ祖父のもとへ 中江藤樹が近江国小川村で両親と一緒に生活できたのは、10年に満たない。9歳のとき、150石取りの武士である祖父から跡継ぎに指名され、両親のもとから、米子の祖父母に引き取られたのである。その原因は父と祖父... 2017.02.20記憶に残る伊予人
記憶に残る伊予人関西財界の雄 土居通夫 居合抜きの名人は、めっぽう数字に強かった 土居通夫は天保8(1838)年、宇和島藩下級武士の6男として生まれた。少年期より知識欲が旺盛で、藩校・明倫館で漢学を学び、壱岐三郎太夫に越後流軍学、不川顕賢に算数を学んだ。さらに22歳で窪田派... 2016.03.13記憶に残る伊予人
伊予の風景スケッチ四国カルスト 松山を出発して南へ車で2時間半、四国山脈のただ中、地芳峠(1084m)にたどり着きます。 これより東を五段高原、西を大野ヶ原と呼んでいます。 そこから少しばかり、緩やかなスロープを標高1400mまで登りつめると、突如とし... 2010.09.24伊予の風景スケッチ
愛媛県展望松山市紹介 石手寺と衛門三郎 当院は松山市の東南、四国八十八か所のうち51番札所・石手寺のそばに位置します。 石手寺は奈良時代の創建ですが、その縁起については遍路の元祖とされる衛門三郎の転生物語があります。 813年に弘法大師が伊予の... 2008.08.11愛媛県展望
愛媛県展望四国八十八カ所 仏教は突然訪れた訪問者 四国八十八カ所をめぐる人々が皆、空海の遺徳を偲んで旅しているわけではありません。 挫折感に打ちひしがれ、心の安寧や立ち直るきっかけを掴みたいという人、信仰によって病気を治したいという人、亡き人を偲ぶ弔いの... 2008.05.19愛媛県展望
記憶に残る伊予人幕末の四賢侯 伊達宗城(だてむねなり) たとえばわが国が今から260年間、外国と国交を断ち、あらゆる海外情報をシャットアウトしたとしよう。 260年後に会った外国人は異星人のごとく理解の範囲を越え、対応に苦慮するに違いない。 伊達宗城たちが置かれた状況はこれに近い... 2008.05.04記憶に残る伊予人
記憶に残る伊予人最後の伊予大洲藩主・加藤泰秋 東京遷都 明治元年9月、若干22歳の伊予大洲藩主・加藤泰秋は明治天皇一行の東京行幸(事実上の遷都)にあたり、その前がけ(行列の先頭)を務めることとなった。 長年尊王・勤皇にいそしんできた加藤 泰秋にとって眩しいばかりの栄誉であっ... 2008.04.07記憶に残る伊予人
記憶に残る伊予人日本初の女医を育てた二宮敬作 シーボルト 二宮敬作は仁義に篤く、礼節をわきまえ信に足る人物であった。 幕末、八幡浜市保内町の寒村に住む少年がいかにしてこのような教養を身につけたのであろうか。 当時、この村にも儒教の教えは浸透していたようである。 ... 2007.06.24記憶に残る伊予人