伊予物語/IYO-HISTORY

24. 昭和戦後の伊予

24. 昭和戦後の伊予

24. 昭和戦後の伊予

天皇からマッカーサーへ

rimg0222_r昭和20年(1945年)8月30日、日本の統治者が天皇からGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のダグラス・マッカーサーに代わりました。

間接統治とはいえ、我が国が史上はじめて外国人によって統治されることになったのです。

また戦後生まれの人間には信じがたいことですが、昭和21年元旦、昭和天皇が国民に向かって「人間宣言」を行ったのです。

「現人神」が地上に降り立ったというほどの話しです。

無条件降伏ですから、政府はいかなる無理難題を言いだされるか身構えていましたが、マッカーサーが持ち出したのは、意外にも日本の民主化政策でした。

昭和20年10月、マッカーサーは圧政の権化であった特高警察、治安維持法を廃止し、政治犯500人を釈放しました。

同時に女性解放政策で参政権を与え、労働者を庇護する労働組合の結成を奨励、教育の民主化、経済の民主化のため三井、三菱、住友、安田など15の財閥を解体しました。

また地主制を解体し、地主の土地所有を制限し農地解放をおこないました。

さらに戦争の思想的支柱を担った国家神道を否定し、国家と神道を分離する命令を出しました。

昭和21年(1946年)4月には20歳上の男女すべてに選挙権が与えられ、衆議院選挙が施行されました。

日本国憲法

そして同年11月、GHQの強力な指導下に日本国憲法が制定されました。

こうして日本国民は、予想だにしなかった民主主義の洗礼を受けることになったのです。

昭和20年10月、松山市にアメリカ第24師団の将兵約1万人が進駐し、約4年間、統治をうけることになりました。

進駐軍は、愛媛県立図書館と市庁舎に司令部を置き、松山空港(海軍航空隊基地)、堀之内公園(陸軍兵営)、愛媛大学・松山大学・松山北高(城北練兵場)、万翆荘、ふなや、大和屋などを接収しました。

県当局は進駐軍への対応に戸惑い、市民に対して「外人軍人に対し直接個人が接触を為さざること」、「みだりに逃避的行動は採らざること」、「婦女子は常に日本の女性たるの自覚に徹し、服装を整へ礼儀を正しく毅然として片鱗も隙を与へざること」などの警告を発しました。

しかし意外にも進駐軍はきわめて友好的に接してきたため、次第に街には安心感が漂うようになりました。

しかしながら市街地は廃墟となり、配給だけではとても食糧は足りず、市民の多くは農家への買い出しや闇市で食い繋ぐほかありませんでした。

当時松山市の闇市は、国鉄駅前、市駅前、中ノ川筋、新立橋、立花橋、に出現し、掘立小屋のおでん屋が市内各所に建てられました。

こうした状況下にあって、昭和20年12月には、早くも市駅前に伊予鉄マーケットが、翌年10月には、三越百貨店が一番町に出店しました。

それに呼応して、湊町・大街道の各商店が徐々に営業を再開するようになりました。

反共の砦

マッカーサーの占領政策は我が国にきわめて好意的でしたが、昭和23年(1948年)から翌年にかけ、朝鮮半島が大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に二分され、中国本土は共産党独裁の中華人民共和国となり、世界は社会主義諸国と資本主義諸国の対立の構図(東西冷戦)が鮮明化してきました。

アメリカは我が国をアジアにおける反共の砦にしようとします。

こうしたなか、昭和25年(1950年)6月、朝鮮戦争が勃発し、米・中は激しく対立します。

皮肉にもこの戦争のおかげで、我が国の経済状態は戦前の状況まで回復することになりました。

しかしそれも束の間の特需で、昭和28年休戦と同時に国際収支はたちまち赤字に転落してしまいます。

この状況に対し政府・日銀が緊縮財政をとろうとしたなか、大蔵省の下村治は「需要より供給を優先すべき」と、減税、金利引下げを主張します。

昭和35(1960)年、これを池田勇人首相が採用。

10年で所得を倍増させる「国民所得倍増計画」を公約しました。

政府が貿易自由化で海外と競争をさせるなか、テレビ・冷蔵庫・洗濯機の三種の神器が登場。

池田の目算は大当たりして所得倍増は計画7年目で達成し、GNPは世界第二位となりました。

松山市の経済復興

松山市でも経済復興は着実に進んでいきました。

昭和28年(1953年)、湊町商店街のアーケードが完成。

銀天街と命名され、松山の新名所の一つとなりました。

昭和32年(1957年)にはNHK、翌年には南海放送からテレビ放送が始まりました。

とくに昭和34年、皇太子ご成婚パレードは全国の家庭にテレビを普及させるきっかけになりました。

昭和37年(1962年)には全日空の松山-東京間航空路が開通、昭和39年(1964年)には 東京オリンピックが開かれました。

この頃松山市の人口は29万人に達しました。

昭和46年(1971年)には、いよてつそごう百貨店が開店。

愛媛県を代表するデパートとなりました。

松山市の人口は昭和49年(1974年) には35万に、昭和55年(1980年)には40万人を突破しました。

そして昭和56年(1981年)のアメリカ・サクラメント市に引き続き、昭和63年(1988年)にはドイツ連邦・フライブルク市と姉妹都市の提携を結び、国際都市として名乗りを上げるに至ったのです。

ところで1970年代に入り石油依存型経済の発展から石油需要は拡大ししてきましたが、中東の政情不安が原因で原油価格が高騰し、オイルショックを引き起こしました。

昭和60年(1985年)9月、先進5ヵ国(日・米・英・独・仏)の大蔵大臣・財務長官と中央銀行総裁がニューヨーク・プラザホテルに参集。

アメリカは、ドル安でアメリカの輸出競争力を高めて貿易赤字を減らし、成長著しい日本の輸出競争力を抑えようとしました(プラザ合意)。

このため為替相場は2年ほどで1ドル240円が120円と、急激な円高が進みました。

これをきっかけに日本マネーは貿易を諦め内需へ向かい、国内の証券・不動産市場へ一挙に投資されました。

その結果、空前のバブル経済を引き起こしたのです。

そして1990年、大蔵省の政策に不安を抱いた人々が、投機を引き上げたとたんに、バブルが崩壊。

以後10年にわたる経済不況をもたらすこととなりました。

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