伊予物語/IYO-HISTORY

18. 幕末の伊予

18. 幕末の伊予

18. 幕末の伊予

1801ペリーの恫喝外交に屈した幕府は日米和親条約を締結し、200年続いた鎖国はあっけなく終わりを告げました。

老中安部正弘は朝廷に報告後、大名・旗本に意見を求め挙国一致体制を組みますが、これがかえって幕府の権威をおとしめ、朝廷の権威を高めることとなりました。

ところが安部急死のあとを継いだ井伊直弼は、幕府の復権をもくろみ、朝廷に群がる攘夷派の公家・大名・家臣をつぎつぎに粛清していきます(安政の大獄)。

しかし、その反動で、今度は彼自身が尊皇攘夷の急先鋒水戸の浪士に暗殺されてしまうのです。

その後、幕府は公武合体に向かい、和宮降嫁が実現しますが、その中心的人物島津久光は生麦事件でイギリスの報復をうけ惨敗、長州藩も4カ国艦隊との攻防戦で惨敗し、身の程を知った両藩指導者(西郷・大久保・桂・高杉ら)は攘夷を捨て、開国倒幕・富国強兵を目指すようになります。

薩長同盟はこの認識のうえに成立します。

薩長同盟

将軍慶喜は薩長の軍事力による倒幕の気運が高まる中、大政奉還という奇手に打って出ます。

がこれは駆け引きであって、朝廷は政権をもてあまし、きっと返してくるに違いないと踏んでいました。

ところが、事実は異なりました。

岩倉ら朝廷の公家と西郷ら維新の志士は、経験も展望ももたぬまま、王政復古の大号令を発してしまったのです。

すなわち慶喜は1大名に格下げされ、表面上は天皇中心の政府となったのですが、実質的には江戸・大阪など全国の4分の1を支配する旧幕府がそのまま残っていました。

慶喜は薩摩の非を責め朝廷に奏上しますが、鳥羽伏見の戦いで錦旗は薩長軍にあがり、旧幕府軍は賊軍となって士気は衰え、連戦連敗を喫します。

慶喜は江戸に舞い戻り、謹慎。

江戸総攻撃に向かった西郷はイギリス公使パークスの提案を容れ、勝海舟との間に江戸城無血開城を実現させました。

このあと、会津・長岡など東北諸藩との戦いを経て函館五稜郭の戦いで戊辰戦争は終結し、旧幕府勢力は消滅しました。

幕末の伊予諸藩は大半が佐幕派であり、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れるなかでなすすべもなく、将軍家に殉じるかたちになりますが、10万石の小藩にすぎない宇和島藩がひとり気を吐いて幕末史に彩を添えます。

宇和島藩では、たまたま七代藩主宗紀に子がなかったため、親族の宗城が次期藩主に選ばれ、弱冠27歳で藩主の地位につくことになりました。

伊達宗城

伊達宗城の学問好きは尋常でありません。

特に西洋事情には深い興味をしめし、学者並みの勉学振りであったといいます。

父の紹介で知己を得た水戸藩主斉昭のお気に入りとなり、彼から国防論、経済論の薫陶をうけました。

彼は経済学者佐藤信淵の説を採りいれ、蝋と紙を専売制にし殖産興業に努めた結果、傾いた宇和島藩の財政を一気に立て直すのに成功します。

さらに、異国船の出没が頻繁となったため、侵攻に備え、大砲の製造、砲台の設置、軍艦の建造に着手します。

このため、八方手を尽くしてこれに関する蘭学兵書を入手し、蘭学の達人、高野長英や長州の村医者村田蔵六を招いて翻訳に全力を注ぎます。

特に高野長英は当時、脱獄囚であり、幕府の目に留まれば藩もろとも潰される危険がありました。

あえてその危険を冒してまで彼をかくまい、蘭学の講義をさせたといいます。

また村田蔵六には蘭学兵書の翻訳に加え、兵術の研究を勧め、蒸気汽船の建造を要望しました。

この後、蔵六は軍事研究に没頭するようになり、のちに江戸に出て、軍事戦略の天才といわれるようになります。

したがって軍略家、村田蔵六(大村益次郎)を世に送りだしたのは、長州藩でなく宇和島藩主であったのです。

維新後、彼は軍事大臣の重職に就いて、戊辰戦争の戦没者を祀る神社(現在の靖国神社)をつくり、徴兵制を導入し軍制改革に乗り出しますが、暴漢に襲われ45歳の若さで世を去りました。

この頃、宇和島藩内で開業医をしていたシーボルトの愛弟子二宮啓作は、シーボルトから帰国にあたり娘イネを預かってくれと頼まれ、宇和島へ連れてきます。

そしてかつて宗城に推挙した村田蔵六へイネの蘭学教授を依頼します。

緒方洪庵の適塾を首席で出た蔵六の教育は厳格そのものでしたが、イネはよくこれに耐え、のちにわが国初の女医となり、横浜で産婦人科を開業します。

またイネの娘高子は、賢夫人の誉れ高き宗城夫人、猶子のもとで仕えることとなります。

幕末の宇和島で育まれた蔵六とイネの師弟愛は、いまも語り草となっています。

1902安政の大獄で宗城は、幕末の4賢候といわれた山内容堂、松平慶永らとともに、隠居に追いやられます。

彼らは幕政には発言権を持たない外様大名で、井伊は彼らが慶喜を次期将軍候補に推し立て、朝廷まで引き込んでいるのに激怒し弾圧を加えますが、真意はもう一度徳川の世を取り戻したいという一念であったことは疑うべくもありません。

文久2年、宗城は朝廷より呼び出しをうけ、国事への参与を委嘱されます。

感激して上京した宗城は、4賢候らとともに幕府との武力対決を避けるよう努力しますが、岩倉・大久保・西郷らに押し切られ、朝廷より慶喜追討令が出されます。

ここにいたって、宗城は朝廷の実権が大名から薩長土を中心とする参謀・参与らの手に移ったことを実感し、失意のうちに帰藩します。

維新後、島津久光や山内容堂は無念の日々を送りますが、宗城は外国通を買われ、今の外務大臣の職に任じられ、日清修好条約の締結を成功させました。

宗城は政府より長年の功を認められ旭日大授章を授与、侯爵に列せられ、さらに従1位にも叙せられ、栄誉を極めて75歳で没しました。

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