伊予物語/IYO-HISTORY

5. 頼朝の伊予戦略

5. 頼朝の伊予戦略

5. 頼朝の伊予戦略

0501源頼朝は恐らく伊予の国を快く思っていなかっただろうとおもわれます。

彼の好敵手は言わずと知れた平清盛ですが、瀬戸内海沿岸はもともと平氏が勢力の基盤としたところで、伊予の国も平重盛が伊予の守となって以来、平氏の知行国のひとつでした。

ですから頼朝が挙兵したときにも、伊予武士のなかで平氏に反旗を翻したのは僅かに河野通清のみという有様で、これでは頼朝が伊予に親しみを持つわけにはいかなかっただろうとおもいます。

頼朝は、守護(警察・軍事)・地頭(荘園・国衙領管理)のほとんどを、土着の武士をつかわず、東国御家人で固めました。

したがって、幕府内での西国御家人の地位は低かったのですが、唯一、伊予の河野通信だけは鎌倉御家人となり、北条時政の娘を妻として伊予の守護に匹敵する地位を得ました。

平氏が滅びたのち、頼朝は義経を伊予の守にしましたが、その後不仲となって彼を解任、西園寺氏を伊予国の知行主としました。

以後、鎌倉時代を通じて伊予の国は西園寺家が統治することとなります。

公家社会から武家社会へ

公家社会から武家社会に変わったことで、世の中は一変します。

それまでの貴族の間でもてはやされた“もののあわれ”は実体のない不確実なものであり、目に見えるものだけが信じるに足る唯一のものとされ、現実的な利益を追求するようになります。

特に土地問題には幕府が威信をかけて取り組むようになります。

関東の開拓農民にとって、開墾した土地が自分の所有となり、それを幕府が保障してくれるという体制こそ、もっとも信じるに足る姿でした。

当時、我が国には親子・兄弟間においてすら、たいした倫理感はありませんでした。

この土地をめぐる訴訟問題のなかで、“名こそ惜しけれ”(うかつに恥をかけない)というモラルが誕生しました。

これがその後全国に広がり、我が国固有の倫理観を形作っていったのです。

ところで、鎌倉に幕府ができたといっても関東でのはなしで、伊予を含む西日本は依然として朝廷の支配下にありました。

そこで頼朝亡き後も、北条政権は朝廷の国衙領や荘園に狙いを定め、強引に守護を入り込ませてかれらの所領を削り取っていきました。

これに業を煮やした後鳥羽上皇は1221年、自派の武士を組織して義時追討を掲げ挙兵しましたが、20倍という圧倒的な幕府勢力の前に、一敗地にまみれたのでした(承久の変)。

このあと、勢いを得た北条一族は京に六波羅探題を設置して朝廷を監視し、西国支配の拠点としました。

この乱で幕府に批判的であった西国領主の多くが没落し、大量の東国武士が西国へ進出することとなりました。

塩・海産物を産する伊予の島嶼部の荘園(年貢の最大のものは塩)には、依然として天皇家の占有するものが多く、朝廷からみれば、伊予は塩・海産物を豊富に生む一級の荘園であったようです。

そのうち伊予の荘園にも幕府は食指を伸ばしてきます。

伊予の荘園

幕府から派遣された地頭は、荘園領主を威嚇して、年貢の取立てに干渉するようになります。

幕府の勢力に腰が引けた荘園側は地頭に荘園の半分を割譲し(下地中分)、和議を結びます。

このようにして、地頭は徐々に荘園支配をつよめていったのです。

当時、道後平野南部(いまの伊予郡のあたり)には北条氏の所領が多数あったといいます。

0502鎌倉時代の伊予における海上交通の拠点は今治で、その対岸山陽路の拠点は尾道でした。

この時期、今治一帯は府中(今で言う県庁所在地)とよばれており、国衙や守護所がある政治都市でした。

伊予の知行国主西園寺家は瀬戸内から九州にかけて所領をもち、伊予国衙の役人もその下で、日宋貿易の準備・運航に携わったといいます。

日宋貿易の興隆で中国から陶磁器とともに大量の銅銭が流入し、博多・今津・坊津・敦賀などは唐人町のごとき活況を呈しました。

鎌倉幕府前期、関東ではそれまで貨幣として通用していた絹・布にかわり銅銭が社会で流通しはじめます。

鎌倉時代から後醍醐天皇へ

これに対し西日本では、米が貨幣として根づよく流通していましたが、鎌倉幕府後期になってようやく銅銭に替わっていきました。

この貨幣経済の発達にともない、鎌倉時代後半には瀬戸内海の水運は、年貢の輸送よりも商品の輸送が主体となり、交通の要所である港湾や宿、寺社の門前、荘園の市場などが急速に発展をとげていきました。

そこでは神人(じにん)寄人(よりうど)たちが独自のネットワークをもち、裁判権までも行使するほどになりました。

そこれを煙たがった鎌倉幕府はかれらを統制しようとしましたが言うことを聞かないため、悪党・海賊などと呼んで忌み嫌うようになりました。

また、西園寺家や有力御家人がやっていた中国との貿易や唐船の派遣も鎌倉幕府末期には北条氏が独占的にやるようになったため、これに反発した熊野神人(じにん)が反旗を翻し、3年がかりの反乱がつづきました。

その後、鎌倉末期の騒然たる状況のなかで、幕府不満勢力を結集し幕府打倒の計画をしたのが、後醍醐天皇でした。

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