方外のひとびと

江戸時代になって、なお剃髪(ていはつ)し頭を丸めていたのは、大半が僧侶である。

そもそも僧侶が頭を丸めねばならなくなったのは、釈迦が始めたからである。

その昔、釈迦は解脱にあたって、頭を丸めた。弟子たちもそれに準じたので、以後、仏教界では俗世間を離れ、仏道に専念する覚悟をもって頭を丸めたのである。

この風はそのまま日本に伝わり、我が国の僧もこれに倣った。

 

戦場の医師たち

ところで、400年にわたる武家政権のなかでも室町末期から戦国時代にかけては、新たな領土を求めて各地で殺戮が繰り返された。

当然、戦場では刀、槍、鉄砲による生傷が絶えず、戦闘が長引くに従い、死者は放置される一方、戦場を退いた外傷者は夥しい数に上った。戦いが終わらなければ、戦闘員は順次補充しなければならない。

後方支援を預かるものは、運び込まれた負傷兵に応急処置を施し、再度戦場に送り返さねばならない。外傷専門の医師がいくらいても足りない状況である。

したがってこの時期、戦国大名が戦場に医師を同伴することは、不可欠だったといってよい。

しかし彼らは決して戦闘員ではない。誤って敵に襲撃されないためには、一目で分かるように頭を丸める必要があった。

 

身分制をはみ出した「方外」のひとびと

その後江戸時代になっても、なお多くの医師が、頭を丸める習慣から抜け出せないでいた。

もともと我が国の医療は、薬学の知識をもつ僧侶が病人の治療を始めたところから始まっている。とすれば、戦場に出向かなくても医師の頭が丸いのは決して不自然ではない。

 

徳川家は戦乱の再燃防止のため、朱子学を幕府の政治的支柱にすえた。朱子学は自分の身分は天から与えられたものであり、そこからはみ出してはならないとする学問である。

このため、士農工商で決められた身分は甘んじて受けねばならなかった。個性を伸ばすなど、もってのほかということになる。

ただし、僧侶と医師の一部はこの枠にはめ込むのが困難である。したがって彼らを身分制の枠から外れた存在 “方外” として扱うことにした。そして、その証として頭を丸めることとした。

 

このやり方は、ことのほか便利であった。

つまり、将軍や天皇など身分の高い人が病気になると、そばに侍って脈をとるなどということは、恐れ多くて誰も手を出せない。

しかし、方外のものであれば別である。身分制から外れた存在であるから、どこにでも自由に出入りできるというのである。

こうして出自卑賎といえど有能な医師であれば、剃髪したのち将軍の傍にいて、からだに触れることが許された。

 

江戸時代の医師

ところで、医師といっても、幕府の御典医から各藩のお抱え医師、一般の町医者まで様々である。

幕府の御典医である奥医師は、交代で1日おきに登城し、江戸城「御医師の間」に不寝番で詰めるのを常とした。そして1日数回、将軍および御台所や側室、将軍の子息たちの診察をおこなうのである。当然頭は丸めねばならない。

藩の御典医は藩医と呼ばれ、藩主やその家族などを担当する士席医師がおり、上級武士の診療もおこなった。当然頭は丸めている。士席医師は代々世襲され、武士の格式が与えられた。一方、下級武士を診る軽輩医師は、下級武士あるいは民間の出身で、それだけでは生活できないため、開業医を掛け持ちすることも少なくなかった。

なお大半を占める町医者には、お供のものが薬箱を持って歩く徒歩医者と、町奉行に許された御免駕籠を使用する乗物医者がいた。彼らに剃髪の義務はない。

 

しかし江戸時代中期にいたり、古方派の祖とされる名医・後藤艮山(ごとうこんざん)があらわれ、総髪にして束ねる髪型(オールバック)をとった。これ以後、町医者は総髪にするものが増え、次第に坊主頭と総髪が相半ばするようになった。

この間、幕府が医師に髪型を指示することは、特になかったという。

 

お伽衆のこと

ところで戦国期、頭を丸めた人びとのなかにお伽衆がいる。彼らもまた、方外の人々であった。彼らは大名などにそば近く仕え,話し相手や書物の講釈などをして一緒に時を過ごすものの、これといってバックボーンはもたず、根無し草のごとき存在である。

当然、優れた知識と話術に長けた人物が選ばれるが、その顔ぶれは元戦国武将から僧侶、茶人、商人まで多彩である。戦いに敗れ、剃髪して命乞いしたものもおれば、身分社会から抜け出そうと剃髪したものもいる。

 

武田信玄、北条氏政、織田信長ら多くの戦国武将が彼らを重宝した。といってもせいぜい十数人である。

ところが豊臣秀吉は、じつに800人ものお伽衆を従えていたという。その顔ぶれは、元将軍の足利義昭、戦国武将の織田信雄、荒木村重、六角義賢、佐々成政、茶人の千利休や今井宗薫、織田有楽斎など、じつに多彩である。

秀吉は読み書きを苦手としたため、もっぱら耳学問によって知識を得ていたからともいわれる。

 

儒家・林大学頭

ところで、江戸幕府を開くにあたり、家康は儒家である林羅山に僧形を命じ、傍に置いた。

当初、羅山は儒家でありながら剃髪し、僧侶の姿をとらされるのに忸怩たる思いでいたが、その後将軍4代にわたって仕え、3代家光の時代にはお伽衆となって活躍した。

儒家だから坊主にさせたのではなく、方外にしないと傍に置けなかったのである。

その後、5代綱吉の時代になってやっと、林家の儒学・朱子学は官学となり、林家は3,500石の士分に取り立てられた。同時に坊主頭も免除され、昌平坂学問所の長官・大学頭(だいがくのかみ)にまで上り詰めた。

 

俳聖・芭蕉

俳諧人・芭蕉も方外のひとであった。

1672年、29歳の芭蕉は故郷の伊賀上野から上京。日本橋で俳諧の宗匠として成功を収めた。

しかし、37歳のとき突如、順風満帆の生活に終止符を打ち、脱俗した。そして深川の草庵に隠棲し、頭を丸めて方外のひととなり、自ら言うところの「桑門の乞食」となった。

桑門とは仏門。僧侶の身なりをした乞食という意である。

当時の俳諧師は、自らを方外のひととして、僧形をするのがはやりだったともいわれる。

江戸時代とはいえ、庵に隠棲し各地を行脚する出家僧は、さほど多くはなかったと思われる。行脚といってもある程度資金がいるだろうし、なにより命の危険を冒さねばならないからである。

しかし、芭蕉は家を処分してまで旅費を捻出し、僧形で全国を行脚した。敬愛する西行を意識していたのかもしれない。

その結果、『野ざらし紀行』,『鹿島詣』,『笈の小文』,『更科紀行』,『奥の細道』など多くの紀行文が生まれた。

 

彼は「奥の細道」の旅で、時代と共に変化していく流動性(流行)と、決して変わらない普遍性(不易)の両立、すなわち変えてはいけないものを土台にし、新味を求めて取り入れようとする姿こそ俳諧の境地であるとして、「不易流行」を唱えた。

そして形骸化しつつある風雅の本質を嘆き、対象に向かって私情を捨てて没入せよと諫言した。「松の事は松に習へ」という名言はこうして生まれた。

 

その後、江戸社会に収まりきらなかった「方外のひとびと」は、明治維新の四民平等によって、この世から搔き消えてしまった。

 

 

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