医学史ひとこま/HISTORY-OF-MEDICINE

細菌学の祖 北里柴三郎

細菌学の祖 北里柴三郎

細菌学の祖 北里柴三郎

明治25年、内務省衛生局長だった長与専斉が大阪適塾の先輩だった福沢諭吉を訪ねてきた。幕末の動乱期、ともに適塾の塾頭を務めた俊才である。

長与によれば、日本の感染症研究にとって欠くことのできない人材が失われようとしているという。その男の名は北里柴三郎

彼はドイツのコッホ研究所に留学中に破傷風菌を見つけ出し、その治療法である血清療法を開発した。その世界的な業績に対し、アメリカ、イギリスの研究所から是非にと招聘を受けたが、母国の研究発展のため誘いを断り帰国した。それにもかかわらず、政府は彼に活躍の舞台を用意せず、むしろ阻止しようとさえしているという。

さらに話しを聞いてみると、北里は自身のドイツ留学にあたり、その労を取ってくれた緒方正規(当時東大医学部講師)に対し、恩を仇で返すような不遜行為をしたという。緒方は東大で北里の1年先輩にあたる。

しかしよく聞けば、それは決して不遜ではない。

じつは北里のドイツ留学中、緒方は脚気の原因菌「脚気菌」を発見したと発表していた。これをうけ、北里は自ら実験で検証した結果、緒方のいう「脚気菌」なるものは脚気とは無関係であると結論し、論文に発表した。

これに対し、東大では忘恩の徒として彼を非難し、その後も執拗に彼の研究を妨害した。後日「脚気菌」なるものはなかったと判明したにもかかわらずである。

 

伝染病研究所を設立

当時、内務省の長与は結核およびコレラ対策に頭を痛めており、帰国する北里を中心に感染研究所の早期設立を閣議に諮問するのだが、緒方ら東大医学部教授陣の妨害で一向に話が進まない。

このままでは北里の才能を潰してしまうと危惧した長与が、悩んだ末に訪ねたのが福沢諭吉であった。

自身、チフスで死線をさまよったことのある諭吉は、長与の話を聞いておおいに賛同し、直ちに研究所を設立すべきと自分の所有地を提供し、伝染病研究所の設立に尽力した。当時、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳。二人の親交はこの時から始まり、北里にとって福澤は生涯の師というべき存在となった。

こうして明治25年、我が国初の伝染病研究所が、政府でなく民間の手によって創設されたのである。北里は終生この恩義に、感謝の意を忘れることはなかったという。

その後、この伝染病研究所は多くの新鋭研究者を得て、つぎつぎに業績を発表し、コッホ研究所(独)、パスツール研究所(仏)と並んで、世界三大研究所といわれるまでになった。

緒方のあとを継いだ東大教授の青山は、この事態に焦燥の念を強くし、感染症研究は民間でなく国主導でやるべきだと政府に働きかけ、大正4年、強引に伝染病研究所を東大医学部付置とし、青山本人が所長の座についた。現在の東大医科学研究所である。

 

北里研究所を設立

自分の研究所を東大に乗っ取られた形の北里は、意を決して伝染病研究所を去ることにした。そして私財をなげうって、北里研究所(現北里研究所及び北里大学)を設立し、以後東大に対抗するようになる。

この騒動に北里の部下は全員辞表を叩きつけ、彼に従ったという。

彼の門下生のなかには、赤痢菌を発見した志賀潔、梅毒の特効薬サルバルサンを開発した秦佐八郎、第二代医師会会長の北島多一、寄生虫研究の宮島幹之助らがおり、いずれも世界に通用する細菌学者として、後世に名を残した。

その後、北里は故福沢諭吉の恩に報いるため、長年にわたり慶鷹義塾の医学教育の発展に心血を注ぎ、大正5年、慶應義塾大学医学部の創立と同時に初代医学部長に就任、11年にわたりその任にあたった。

また、研究ばかりでなく、多くの社会奉仕もおこなった。

明治天皇が生活困窮者を救済しようと創設した済生会病院の院長職を無給で引き受けたり、全国の医師連合である日本医師会を創設して初代会長となり、健康保険制度の実現に尽力した。

 

破傷風菌の培養に成功、血清療法を確立

 以下はドイツへ留学していた頃のエピソードである。

世界的権威のコッホ研究所で、4天王のひとりといわれるまでになった北里は、一気にその才能を開化させた。

当時、破傷風菌は単独では培養できず、他の菌と一緒でないと増殖できないといわれていた。これに疑問をもった北里は、細長い試験管を垂直に立てた培地で破傷風菌を培養し、雑菌と分離培養するのに成功した。

さらにこの試験管を加熱すると、雑菌は死滅するも、破傷風菌とおぼしき細菌だけは生き残ることを知った。

 

あるとき、研究所の同僚に食事に誘われ友人宅を訪問した。たまたまキッチンで茶碗蒸しに似た料理を作っているとき、そこへ焼き鳥の串のようなものを刺し込んでいるのを見た。北里が何をしているのか尋ねると、奥の方が固まっているかどうか、確かめているという。

そこで彼ははたと膝を打った。

誤って古い釘を踏んでしまうと、破傷風菌は傷口でなく足の奥のほうで繁殖するはずだ。ということは、破傷風菌は酸素の届かないところで増殖するはず。北里はこれをヒントに、破傷風菌は酸素があると生きていけない菌ではないかと考えた。

まだこの世に酸素を嫌う菌「嫌気性菌」がいるなど、知られていない時代である。

そこで彼は、亜鉛に希硫酸を反応させると水素が発生する装置を開発し、酸素のない細菌培養装置により破傷風菌の純粋培養を成功させた。

 

さらに彼は、破傷風菌を動物に接種しても、接種部位よりほかに菌が広がらないこと。それにもかかわらず、動物が全身症状を示すのは、菌が何らかの化学的毒物を発生しているのではと考え、その翌年には破傷風の血清療法を考案した。

その後、北里の血清療法はジフテリア治療にも応用され、多くの人命を救った。

これを機に、彼は一留学生ではなく有能な細菌学者として、ドイツ医学界に重きをなすようになった。

そして帰国の際には、ドイツ皇帝は北里を絶賛するメッセージを明治天皇に送り、彼に「プロフェッサー」の称号を贈ったという。

 

北里、ノーベル賞候補となる

こののち明治26年に、内務省からペストの流行地・香港に派遣された北里は、かの地でペスト菌を発見しイギリスの雑誌に発表、世界中から絶賛されたのであった。

また、明治34年、数々の業績により、北里は第一回ノーベル医学生理学賞の候補にノミネートされた。

しかし、ドイツが国を挙げて応援したことも幸いし、同じコッホ門下のベーリングが「ジフテリア血清療法の開発」で第一回ノーベル医学生理学賞を受賞したのであった。

ジフテリアの血清療法は、もともと北里が破傷風菌を使って開発した手法であり、対象論文も北里との共同執筆であったにもかかわらずベーリングの単独受賞となった。

世界的には、日本の医学水準が過小評価されていた時代でもあり、北里にとっても、日本にとっても、幻のノーベル賞となった。

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