医学史ひとこま/HISTORY-OF-MEDICINE

富山のシュバイツァー 萩野昇

富山のシュバイツァー 萩野昇

富山のシュバイツァー 萩野昇

 

 

昭和42年12月15日、参議院特別委員会の会場は熱気に包まれていた。

12年前、イタイイタイ病の鉱毒説を発表した萩野昇が、ついに国会において参考人として証言の場に立ったからだ。

萩野は静かに口を開いた。

「私は田舎の開業医ですが、ひとりの医師として患者がかわいそうなばかりに、この病気の研究を積み重ねてきました。

痛い痛いといって泣き叫びながら死んでいった農婦たち、主婦が寝込んだため起きた様々な家庭の悲劇、あの人たちになんの罪があるのでしょうか。

なにがあのひとたちを地獄の苦しみに追い込んだのか・・・私はただ患者が気の毒だと思います・・・私はただ患者を助けるのが宿命と考え、純粋な立場で、謙虚な気持ちで、研究を積み重ねてきただけです。」

萩野の口上に偽りはなかった。

ただ、この純粋な医師の理念が世間と正面から向かい合ったとき、世間とはいかに胡散臭いものであるかを物語ることになるのである。

昭和20年、終戦となり大学にもどって病理学の研究を目指そうとした萩野は、家計を支えるため、整形外科医の道に進まざるを得なくなった。

開業してまもなく彼は奇妙な病気の患者たちに遭遇することとなった。

全身の骨がもろくなってからだ全体が萎縮し、手足や腰の激痛から歩くこともままならず、握手したり咳しただけで手や胸の骨が折れるという難病であった。

ただ脳は冒されないため痛みにはかえって敏感となり、寝たきりのまま「痛い痛い」といいながら衰弱死していたのであった。

このため萩野病院ではいつしかこの病気をイタイイタイ病と呼ぶようになっていた。

しかも患者は40歳以上の農家の主婦が大部分であったため家庭崩壊を来す例が多く、家族は患者をひた隠しにし、呪われた業病として世間に知られるのを恐れた。

彼が調べてみると、100人を超える患者は彼が住む神通川中流域の婦中町を中心とした地区に集中してみられることが分かった。

彼は患者を次々に地元の総合病院へ紹介したが、明確な返答は得られなかった。

開業医としては、これ以上打つ手のない状況である。

しかし萩野はこの悲惨な患者を放置する気にはなれなかった。

彼は母校の金沢大学病理学教室に出向き、共同研究を依頼した。

そして温かい協力を得て、患者の腎臓の尿細管が著しく障害されており、腸管からのカルシウムの再吸収が悪化して全身の骨がもろくなっていることを突き止めた。

しかしなぜ腎臓の尿細管が障害されるのかが分からなかった。

彼は自分の病院の一部に実験室を造り、ラットやウサギの感染実験に明け暮れるようになった。

しかし期待した結果は得られないまま空しく日々が過ぎていた。

スクープ

事態が大きく動いたのは、昭和30年8月、富山新聞八田記者のスクープによる。

この日、八田は富山新聞社会面トップにイタイイタイ病を大きく報じた

この病気は神通川流域に限局し、かつて医学界に報告されていない奇病である。

地元に住む萩野昇博士が発見し、病因が不明のため医学界の権威が大挙来県し、病態解明に取り組もうとしていると報じた。

これにより、富山県民ですら知らなかった奇病が全国に知れ渡るようになった。

またこれをきっかけに大学の専門家が集まり、数年にわたり萩野昇と精力的な共同研究がおこなわれるようになった。

しかし大規模な調査研究にもかかわらず、得たれた結果ははかばかしいものでなかった。

すなわち、栄養不良、過労、ビタミン不足、日照不足以外に原因となるものがみつからなかったのである。

権威による結論といえども、萩野はこの結果に納得できなかった。

このような条件下のひとたちは全国にいくらでもいるのに、この奇病はここにしかみられないではないか。萩野はひとり考え込む日々がつづいた。

一方、イタイイタイ病が全国に知られるようになったおかげで、萩野は地元民からバッシングをうけるはめになった。

いわく、お前のおかげで神通川流域は人間の住むところでないといわれた。日本で生活レベルのもっともひどい地域といわれた。嫁が来なくなった。米が売れなくなった等々。

ついには自分の売名行為に利用したのではないかと罵られるほどになった。

それでも、彼は研究を諦めなかった。

研究

神通川中流域では川底が周囲の水田より高いので、農業用水を神通川から取水している。

婦中町を中心としたこの地域にこの奇病が発生していることと、どういう関係があるのであろうか。

彼は地図を眺めながら、神通川上流にある神岡鉱業所に原因があるのではないかと疑うようになった。

すでに神通川の水質検査は異常なしとの結論がでている。しかし鉱業所の排水にまだ検出できない鉱毒が含まれているとしたらどうだろう。

上流は流れが速く川底が深いため氾濫しにくく、中流域に到って流れが緩慢になるため、氾濫しやすくなる。

さらに下流域になると、他の川と合流するため毒物は希釈されると考えれば、奇病が中流域に発生することに合点がいく。

彼はひとり、神通川には未知の鉱毒があるに違いないと信じるようになった。

嘲笑

昭和32年12月、萩野は科学的根拠を示せないまま、鉱毒(亜鉛、鉛、砒素など)を含む神通川の飲水がホルモン異常をきたし、2次的にビタミンD不足をおこして発症するのではないかと学会で発表した。

予想どおり、学界では論拠がないと一蹴され、かえって田舎医師の売名行為と嘲られたのであった。

加えて、富山県も企業誘致を促進する立場から三井財閥擁護にまわり、神岡鉱山鉱毒説を否定した。

患者を助けたいという萩野の純粋な気持ちは打ち砕かれ、行政からも、住民からも、学会からも軽蔑され、迷惑な人物というレッテルを貼られてしまった。

とくに住民からは農作物が売れなくなり、嫁の来てもなくなったと嫌がらせの電話や脅しの電話が頻繁となり、病院の職員も退職してしまうはめになった。

彼の心はすさんでいた。

イタイイタイ病に執着さえしなければ、平穏な日々を過ごせたことだろう。

もって行き場のない空しさであった。

一通の手紙

この鬱屈した状態を打開したのは、突然舞い込んだ1通の手紙であった。

昭和34年、岡山大学の小林教授が神通川の水質検査をさせてほしいと言ってきたのである。

彼は河川の水質検査の専門家で、かねてより鉱毒の存在を疑っていた人物である。

萩野はすがるような気持ちでこれに応じた。

小林は研究室に新しく導入されたスペクトログラフで、神通川川水を分析した結果、亜鉛・鉛・砒素のほかにカドミウムが多量に検出されたと連絡してきた。

当時の日本には「カドミウム」という言葉はほとんど知られておらず、医学者も人体に及ぼす影響について全く無知であった。

カドミウムは亜鉛を精錬するさい発生する副産物で、これを神通川に流していたのであった。

しかしカドミウムがイタイイタイ病の原因であるというためには、生体にカドミウムが蓄積されているのを証明する必要がある。

当時の日本にはその分析法がなかった。

このため、小林教授は渡米して検査技術を習得し、帰国後、死亡した患者の臓器から大量のカドミウムを証明してみせたのである。

さらに婦中町の稲、白米、土壌、神通川川水からも大量のカドミウムを検出した。

昭和36年6月、萩野は34回整形外科学会でイタイイタイ病はカドミウムによる汚染が原因と発表し、マスコミの大きく取り上げるところとなった。

これによって「カドミウム」という重金属が世に知られるきっかけにもなった。

しかし、学界の反応は冷やかであった。

生体にカドミウムが見つかったからと言って、イタイイタイ病の原因かどうかは別問題である。

また中年女性にだけみられるのはなぜか。

骨以外の臓器に障害が少ないのはなぜか。

カドミウムを摂らせると動物にもイタイイタイ病が発生するのか。

これらの検証がされなければ、カドミウムが原因だとはいえないではないかというものであった。

重大な発表にもかかわらず、一開業医の粗雑な研究として、学会は冷ややかな対応しかとらず、富山県は企業誘致を優先して、神岡鉱山説に否定的立場を崩さなかった。

地元住民からの非難もますます盛んとなった。

四面楚歌と評価

四面楚歌となった彼は、もはやこれまでと、自暴自棄の生活に陥っていった。

そんななか、昭和37年、彼は病弱の妻に先立たれてしまったのである。

彼は十分な看病をしてやれなかったことを悔い、目覚めたように再度、研究に没頭するようになった。

その萩野を援護するかのように、突然アメリカ国立保健研究機構から、34回整形外科学会の成績を評価し、1,000万円の研究費が送られてきたのである。

同じ業績に対して、我が国とアメリカの学会でなぜこれほど評価が異なるのか、萩野は暗然たる気持であった。

それでも彼はこの研究費で動物小屋をつくり、カドミウムの動物実験に取り組んだ。

そして何度も失敗を繰り返しながらやっと成功が見えてきた。

同時に岡山の小林教授も長期の動物実験でイタイイタイ病のネズミをつくることに成功。カドミウムが原因であることを実証した。

こうして昭和41年、やっと学界にも行政にも萩野学説を肯定する雰囲気が沸きあがってきた。

被害者の会

住民もまた、お上には逆らえない、財閥には勝てないとの立場を一転し、萩野に好意的となり被害者の会を結成、三井金属に対峙するようになった。

しかしあろうことか、この期に及んでもなお、富山県は婦中米の不買運動を恐れ、住民運動に非協力であった。

昭和42年12月、公明党矢追参議院議員の先導でイタイイタイ病患者3名が国会に出向き、園田厚生大臣に面会

ついで萩野が産業公害特別委員会で講演をおこなった

満員の会場は静まり返っていた。

純粋に患者を助けたいと念じた医師が本懐を遂げるにはかくも苦難な道を辿らなければならないのか。

この理不尽と戦い続けた12年間にむなしく死んでいった患者たちに思いを馳せ、壇上の彼は涙が止まらなかった。

萩野の講演は傍聴した議員の胸を打ったに違いない。

異例の発表

その証拠に半年後の昭和43年5月8日、厚生省は異例の発表をおこなったのである。

厚生大臣は萩野の説を全面的に受け入れ、イタイイタイ病は三井金属神岡鉱業所のカドミウム汚染が原因であると正式に認めたのである。

日本初の公害病の認定がなされた日であり、萩野が鉱毒説を唱えて以来12年を要したことになる。

戦後、大衆を犠牲にしてでも産業を優先させてきた戦後政治が大きく転換される記念すべき日でもあった。

萩野の研究は世界から高い評価を得た。

イタイイタイ病はそのまま国際病名として登録されることとなり、WHOもカドミウムをイタイイタイ病の原因であると公式に認めた。

日本の学界も慌てて彼に栄誉を与えた。

こうして我が国初の公害裁判がおこなわれることとなった。

しかも巨大企業を相手にした、史上最大規模の裁判であった。

全面勝訴

そして昭和46年6月、イタイイタイ病原告患者515人に対し、全面勝訴という歴史的判断が下ったのである。

萩野は田舎の一開業医にもどり、平成2年、74歳でその反骨人生を終えた。

純粋なこころざしは得てして世間の冷笑を買うばかりで、容易に受け容れられることはない。

それに屈せず、悩める人々のため尽力した萩野は、かつては彼を罵った地元住民から“富山のシュバイツアー”と敬愛されるようになった。

以って瞑すべしであろうか。

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