興味深い日本人/INTERESTING-JAPANESE

タフネゴシエーター・大隈重信

タフネゴシエーター・大隈重信

タフネゴシエーター・大隈重信

佐賀藩の徹底教育

幕末、幕府の呑気さを後目に、諸藩の勉学熱は尋常でなかった。とくに薩摩、長州、佐賀、越前、宇和島の各藩は熱心であり、なかでも佐賀藩の意気込みは突出していた。

藩士の子弟は7歳になれば藩校弘道館に入学する。16になると高等教育課程に入り、約10年をここで過ごす。

藩主鍋島直正は佐賀藩士をことごとく学問漬けにし、青春の20年間を強圧的に朱子学で染め上げようとしたのである。

つまり、中流藩士以上の子は漢籍を読み解き議論できるほか、剣と槍の「免状」を得ること、下級藩士の子は漢籍を理解でき、武芸の目録を得ることを至上命令とした。

なにしろ、25歳までにこれをクリアーしないと、家禄の8割を没収されるうえ、藩の役職にはつけなくするというのである。

武士としては死ねといわれるに等しい。

この過酷なハードルのもと、藩士の子弟たちは必死で四書五経を暗記し、武道に励んだのである。

一方下級武士にとっては、身分は低くても努力すればとりたてられるという、士気の鼓舞される契機となった。

しかし当時10代後半の大隈重信は、このがんじがらめのシステムに反発し、弘道館改革を叫んだため、退校処分をうけた。

その後彼は国防のため設置された蘭学寮へ転じ、オランダの兵学、航海術、築城術、医学などを修めた。

そして朱子学一辺倒の弘道館に、この蘭学コースを編入させ、わずか24歳でそこの教授に収まった。

いざ長崎へ

 しかしまもなく、今後は英語が時代を主導することを悟り、長崎に出向き佐賀藩の許可を得て、英語学校を創設することに成功し、宣教師フルベッキを校長に招いた。

ここで彼は、英語で新約聖書とアメリカ憲法を学びながら、民主主義、三権分立などの立憲思想を身につけていったのである。

一方藩主鍋島直正は、藩内に精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発に尽力した。公称35万石、実質90万石といわれた佐賀藩の米に加え、有田焼などの陶器、白蝋、石炭、和紙などを国内外に輸出し、その資金でペリーの来航前、すでに製鉄所、反射炉を完成。慶応2年には蒸気船やアームストロング砲の製造に成功した。

当時佐賀藩の有する軍艦、大砲などの海軍力は、諸藩から我が国屈指と評されるまでになった。

それにもかかわらず佐賀藩が政治の表舞台に登場するのは、鳥羽伏見の戦いの後、東征軍が江戸へ向かってからである。

佐幕か倒幕か煮え切らぬ態度で、諸藩から「佐賀の妖怪」と警戒された鍋島直正であるが、じつは元将軍家斉の娘を正妻としており、佐賀には倒幕を鮮明にしにくい事情があった。

しかし維新政府は、日本一の海軍力とアームストロング砲を有する佐賀藩には格別寛容な態度で接した。戊辰戦争に佐賀の協力は不可欠と判断したからである。

慶応3年、大政復古の大号令で長崎奉行が逃亡したあとの長崎で、裁判所が開かれると同時に、アメリカ憲法に精通した大隈は、外国事務局判事にとりたてられた。若干29歳である。

剛腕パークスと対決

ちょうどこの頃、長崎浦上地区に3400名のかくれキリシタンがいるというので、長崎裁判所総督が彼らを逮捕したうえ、拷問を加え転宗させようとした事件がおこった。

明治になってなおわが国には、江戸期以来のキリスト教禁教令が生きている。

ところが、これを知って怒り心頭となったのがイギリス公使パークスである。

排外主義のなにものでもないと、政府を非難し、処分撤回を迫った。政府内にはパークスの権幕に恐れをなし、誰も交渉の席に着こうとしない。

対応に苦慮した岩倉ら政府首脳は、地方の小役人にすぎないとはいえ、英語に堪能で論客の呼び声高い大隅を、急きょ大阪に呼び寄せた。

談判の場所は大阪の本願寺である。日本高官、外国公使たちの居並ぶなか、登場した大隈に対し、パークスは、「大隈は身分が低すぎる。英国皇帝陛下の御名によって英国政府を代表する余は、かような下級官吏とは交渉はいたしかねる」と一蹴した。

これに対し大隈は、「貴下が英国皇帝の御名によって英国政府を代表されるのならば、わが輩もおなじく日本国天皇の御名によって日本政府を代表するものである。

もしわが輩と談判できないというのであれば、これまでの抗議を自ら撤回したものと見なすが、それでよろしいか?」と切り返した。

こんな若造がと、たかをくくっていたパークスは思わず気色ばんだ。

しかも、「今回の処分はわが国の内政問題であり、明らかに内政干渉である。

しかもこの処分は、国法にしたがっており、なんら道理に外れたものではない」とたたみかけた。

一瞬パークスは顔色を失い、「それは暴言だ」と叫び、「信仰の自由は守られねばならぬ。
今回の日本政府の処置は、まさに野蛮行為ではないか」といきり立った。

これに対し大隈はひるむことなく、西洋史におけるキリスト教の功罪を列挙し、むしろ罪悪行為のほうが多かったではないかと反駁した。

もともと大隈は人の話は聞かず、自分の意見を押し通すタイプである。パークスに対して一歩も引かず、ひるむことなく自説を押し通した。

大隈は朝10時から昼飯抜きで6時間、パークスがひとこと言うとその2倍言い返すという具合に、英語でしゃべり続けたため、さすがのパークスもとうとう頭を抱えて退散した。

後日談だが、パークスは日本をたかが東洋の島国と見下していたが、その国の若者の口から英語で「国際法」とか「内政干渉」などという政治用語が出てきたことにひどく驚き、以後大隈を非常に丁重にもてなすようになったという。

中央政界へ躍進

パークスの攻勢をものともしない大隈の対応は、政府に驚きをもって迎えられ、以後彼は中央政界へと躍り出ることになる。

明治新政府への出仕には、各藩主より推薦された貢士と、政府から選ばれた徴士の二つがある。大隈は徴士となった。

明治3年には参議となり政府首脳の一員となった大隈は、郵便制度の創設、鉄道施設の推進、義務教育の実施、徴兵制の実施などに精励し、その後大蔵卿として、地租改正や秩禄処分、殖産興業など明治国家財政の基礎作りに貢献した。

しかしこの頃の大隈は、議論となると相手を説き伏せずにはおかないという悪い癖が出てしまい、周辺からは近寄りがたいという評価をされることが多かった。

失意のうちに下野す

そういう悪癖も災いして、大隈は明治14年の政変で下野することになる。失意のうちに下野した大隈は、十年後の国会開設に向けて立憲改進党を結成するとともに、東京専門学校(のちの早稲田大学)を開校するが、政治活動は思うに任せず、忸怩たる日々であったらしい。経済的にもかなり貧窮したという。

しかしこの試練が彼を大きく成長させたようである。

親友の五代友厚から大隈に送った手紙が残っている。そこには「愚論であっても我慢して聞くこと。地位の低い者と同意見なら、その者の意見として採用すること。

怒気、怒声を発しないこと。自分が先を読めても、部下の話が煮詰まってから決断すること。

嫌っている人とも勉めて交際を広めること。」と、きめ細やかな助言がしたためられている。

大隈はこれを自戒の言葉とし、自らを鍛錬していったといわれる。

中央政府でプロイセン型の君主制憲法を導入しようとする伊藤博文に対し、大隈は在野にあって、イギリス型の議員内閣制を主張した。

明治維新以来、政界改革派の双璧といわれたふたりであるが、明治21年、首班指名をうけた伊藤は、不平等条約を改正するためには大隈の外交手腕に頼らざるを得ないと判断し、政敵・大隈を外務大臣に登用するという苦渋の選択をして、世間を驚かせた。

条約改正で英国公使と対決

領事裁判権の条約改正という、維新以来の難題を請け負った大隈は、執拗に反対する英国公使フレーザーとの会談に臨んだ。「日本は東洋における英国である。6万の陸軍、30余隻の軍艦をもつわが国を敵にするのは、イギリスにとって決して得策ではなかろう」。

「わが国と手を結ぶのは貴国にとって間違いなく有益であり、いま条約改正に応じないことは将来に禍根を残すであろう」。

大隈はこういって、フレーザーにゆさぶりをかけた。それが脅しでなかった証拠に、その後イギリスの態度に少しずつ軟化がみられ、大隈の後を継いだ青木外相になってからは好意的となり、条約改正につながっていったのである。

ネゴシエイター(交渉に長けた人)といわれるひとは、根拠のない脅しや、はったりは言わない。したがって相手も立ち止まって、考え直すゆとりができるのである。

パークスにしろ、フレーザーにしろ、大隈は相手の表情をみながら、自信をもって対峙している。しかも言うべきことは言ってひるまず、決して妥協しない。

タフネゴシエイター・大隈の面目躍如である。

人望厚きひと

後半生の彼は、一度も他人を叱ったことがない温和な人物と評価され、会ったひとは皆爽快な気分になったという。徳富蘇峰も「大隈の取柄は我慢づよいことだ」といって絶賛している。

すでに政界を引退し76歳となった大隈に、政府から是非にと総理大臣を請われた(第2次大隈内閣)のも、彼の世評の高さを物語っている。

長寿を全うして85歳で死去。日比谷での国民葬には30万人もの民衆が参列したという。

国民的人気のいかに高かったかが偲ばれる。

早慶戦の始まり

余談だが、かつて大隈は日頃、辛口評論家の福澤諭吉を生意気な学者だと言い、福沢も大隈のことを生意気な政治家といって嫌っていた。あるとき、雑誌の編集部がふたりに内緒で酒宴の席を設けたところ、酒が入ると俄然意気投合し、周りを驚かせた。

大隈が「福澤先生は羨ましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言ったところ、福澤(慶応大学)が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」ともちかけられ、早稲田大学をつくったというのである。早慶戦の始まりをこんなところに見い出せそうである。

その後、大隈は福澤と固い絆を結び、日本の教育界に輝かしい足跡を残すのである。

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