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富永仲基の仏教観

富永仲基の仏教観

富永仲基の仏教観

法華経も阿弥陀経も釈迦の仏教でなく、後世の人の作だといったのは、大阪の町人・富永仲基(なかもと)である。

彼の棲んだ江戸時代、幕府が容認している仏教に対して、釈迦が始めたものではないと声を出すのは、身の危険を覚悟の上である。しかも当時のような資料の少ないなかで、この事実を喝破したのは彼一人である。

もともと懐徳堂で儒学を学んだが、20歳のころ宇治の萬福寺で大蔵経の校合という地味な仕事に携わり、独自の仏教観を醸成した。仲基によれば、今の仏教は釈迦以後の仏教徒が、前説に次々に新説を「加上」して創り上げられた創作であるという。

さらに、中国春秋戦国時代の思想史を通観した結果、儒教は絶対的思想でなく諸子百家の一つにすぎないこと、今の世の神道は大昔を手本に、異様なことを平気でやり、過ちを擁護する愚に陥っていると批判し、誠の道を実践せよと説いた。 20代の若者がである。

さらに鎖国の日本にいて、インド人は空想的で神秘的、中国人は修辞的で誇張し勝ち、日本人には隠すくせがあると指弾するなど、非凡な洞察力を窺わせる。

わずか32で夭折するまで、世間は彼の評価に戸惑ったが、明治の御代になって再評価され、その感性の鋭さから奇才のうえに、天才の名が冠せられた。

以下は富永仲基が喝破した日本の仏教すなわち大乗仏教についてである。

まずは釈迦の仏教について

その昔、釈迦は、現世を無常と苦の世界とみた。人もものも必ず死ぬ。目に留まるものは移ろいゆくもので、留まることがない(諸行無常)。それを移ろわないもの、常住するものと見るから苦が生じるのである。その苦の原因は人間の執着にある(一切皆苦)と言った。

またすべてのものごとは、互いに影響をし合い、何一つそれだけで存在するというもの(我という)はないとした。互いに生かされ、生きている(諸法無我)というのである。

そこで釈迦は、こころの安寧を得るためには、出家して瞑想三昧の修業に浸り、煩悩を消し去って涅槃に至る努力をするしかないと断じた。他力など論外であって、あくまで自力で道を切り開かねばならぬというのである。

しかし釈迦の言うとおりにするには、あまりに犠牲が大きい。

なにしろ、家族を捨て、財産を放棄し、無一文となって僧伽(サンガ)に依り、煩悩を断ち切って瞑想にふける修業を続けるのである。働くことは禁じられ、食べるものはすべて社会からの喜捨のみによるという徹底ぶりである。

つまり、個人個人が自分のことだけに専心し、涅槃の境地を目指すのであって、他人のことに気配りする余裕はない。こうして修行しても、実際、無我の境地に到達できた(解脱)ものは、僅かであったといわれる。

大乗仏教の出現

ところで釈迦の入滅後、インド仏教界はいくつもの派閥に分裂し、それぞれが釈迦の教理の研究に従事していた。しかし彼らは多分に独善的で、当面の問題は自分たちが解脱できるかどうかであり、一般庶民には無関心であった。

そのなかから、本当に救いを求めているのは悩める衆生であって、自分たち僧侶は、彼らにこそ目を向けるべきではないか。彼らにこんな出来もしない戒律を強要するのは間違いだという声が、沸き起こって来た。

仏からみれば救済、衆生からみれば信仰という道が開かれたのである。

仲基のいう仏教すなわち大乗仏教の登場である。

般若経の登場

この一切の衆生を救おうとする者たちが集まり、釈迦の本意を逸脱しない範囲で、庶民がついていける教義に変換しつつ、「般若経」を編纂した。般若とは「悟りに至る智慧」を意味する。その結果、瞑想による修行はいったん中止とし、日常生活のなかで「利他行」に専念することとした。

そもそも釈迦の仏教では、いかに修業しても阿羅漢ならばともかく、ブッダ(覚った人)になることは釈迦以外、ほとんど不可能とされていた。

これに対し大乗仏教では、在家のままで家族や財産を放棄せずとも利他行に専心すれば、誰でもブッダになれ涅槃(極楽浄土)に至ることができると、大幅にハードルを下げたのである。

そしてブッダになるための近道として、般若心経(般若波羅蜜多心経の略)を唱え、写経し、その教えを人々に広めることを推奨した。波羅蜜多とは「涅槃に至る」ことで、般若心経は「極楽浄土に至る正しい智慧」を意味する。ただ、般若波羅蜜多心経は600巻にも上るため、そのエッセンスを伝えるために、わずか262文字に圧縮した「般若心経」がつくられた。

ただ、この短い経典のなかには般若経の本質が実によく凝縮されていたため、現在我が国の宗派の大半が、これを読誦経典(どくじゅ)に用いている。

ところで、般若経の根底には「縁起」と「空」の思想が流れている。

一言でいえば、「縁起」はこの世のすべてのものは繋がっているという思想であり、「空」は目に映るものは虚像であるから、そういうものには執着せず、拘らないようにしようという世界観である。

この執着を取り去り、悟りを得ようとする修行は「六波羅蜜」と呼ばれ、彼岸の求道者が実践すべき6つの徳目が示された。

布施」は見返りを求めない施し。「持戒」は自らを戒めること。「忍辱」は辱めを受けても、堪え忍ぶこと。「精進」は不断の努力。「禅定」は心を平静に動揺しないこと。「智慧」は真理を見極め、正しい認識をすることである。

 法華経の登場

般若経のあと、100年をかけて教義をブラッシュアップした形で、南無妙法蓮華経で有名な「法華経」が登場した。

般若経を基礎としてつくられたため、共通点が多く、善行を積めば誰でもブッダになれるという点は同じである。

ただブッダになる道を3段階に分けた般若経と異なり、段階などなく全ての人が等しくブッダになれる(一仏乗)とした。さらに、ブッダは時空を超えた永遠の存在であって、無限の命をもって、いつも我々の周りに付き添ってくれている(久遠実成)と説いた。

ところでこの当時、西域と中国を結ぶシルクロードが開通し、釈迦の仏教(小乗仏教)と大乗仏教がともに中国に伝わることになった。その結果、中国では大乗仏教こそ釈迦の本意を表しているとして、受け容れられることとなった。

なかでも中国天台宗の開祖・智顗(ちぎ)が法華経を最上の教えとしたため、これが広く流布し、飛鳥時代、朝鮮を通じ日本にも伝えられた。

したがって日本に伝わった仏教は大乗仏教であり、まず法華経がその先駆けであった。このとき、聖徳太子の手により法華経の注釈書「法華義疏」が記されている。

その後、平安時代初期、唐に渡った最澄が比叡山延暦寺に法華経中心の総合大学を開き、のちに法然、親鸞、日蓮、道元、栄西などの俊才が相次いで、ここに学んだ。

法華経では、仏法を広めるために人々に慈悲をもって接し、苦しいことにも笑って忍び、ものに対し執着を断つことを求めた。そして毎日「南無妙法蓮華経」と唱えながら法華経の教えを守れば、仏が人々を救済へと導き、一切の衆生は必ず仏に成り得るとした。

なかでも日蓮は、まわりの人々へ積極的に法華経を勧めることを奨励したが、その布教活動の過激さゆえに、法華経信者は無関心層からしばしば迫害を受けた。

それにもかかわらず、多くの信者は、迫害をうけることが法華経の正当性を証明しているとして、布教を止めようとはしなかった。

さらに、だれからも認められず苦労しても報われない姿こそ、菩薩の正しい姿であるとしたため、貧困や病気に苦しむ人々にとって、強い心の支えとなった。

その後、法華経は戦国、江戸時代を通じ、庶民ばかりでなく、大名家にも広く信奉されるようになった。

そして、後述する浄土教とともに、我が国最大規模の仏教集団(日蓮宗、日蓮正宗、立正佼成会、霊友会、創価学会など)を形成し現在に至っている。

華厳経の登場

法華経と双璧をなす大乗経典として、我々日本人に強烈な印象を与えたのが華厳経である。法華経と同じころ、紀元1世紀から4世紀にかけ中央アジアでつくられた小経典を集成したもので、40~80巻からなる。

奈良時代、中国を経て我が国に伝えられ、聖武天皇が華厳経のもつ強力なネットワークで地方統括を目論み、鎮護国家を目的に東大寺大仏を建立した。
華厳経の世界観はじつに壮大である。広大な真実の世界には様々なブッダがいるように見えるが、それらは無数のネットワークを形成して相互に繋がり、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)という宇宙(ブッダ)を形作っているという。

そこから、一塵という極小のなかに一切(無限大)が含まれ、無限大である「多」のなかに一塵という極小が満ち満ちている(一切即一)という独特の思想が生まれ、 “すべてのものはお互いのおかげによって生かされている”という世界観が出来上がった。

華厳経は国家鎮護に利用されたため、大いに興隆したが、悟りや救済という思想が盛り込まれなかったため、平安期に入ると衰亡の一途をたどった。

ただ、一塵に宇宙を見出そうとする華厳思想は、その後もわれわれ日本人の心に根を下ろし、多大な影響を与えつづけた。

密教の成立

華厳経が成立した4,5世紀ごろ、インドではヒンズー教が勢力を伸ばす一方、仏教は勢力を失い、荒廃の危機にあった。

このため大乗仏教集団は生き残りを図るため、ヒンズー教やバラモン教の呪術的要素を取り入れた。これが密教の始まりである。

今までの仏教では釈迦がすべての衆生に向かって教えを説いたのであるが、密教は釈迦でなく大日如来(毘盧遮那仏)が修業の進んだ人にのみ、こっそり教えるという秘密の宗教である。これが中国に伝わり、唐の僧侶・恵果から真言密教を直伝された空海が、帰国した後、高野山で真言宗を開いた。

空海も「一切即一」を説いており、密教が華厳経の世界観を受け継いでいることは明白である。空海は三密加持の行(印で手を結び、真言を唱え、宇宙の真理を思い描く)という修業により、即身成仏するのを目標とした。

即身成仏とは生きたまま仏の境地に至ることをいい、瞑想のまま絶命しミイラになる即身仏とは異なる。

一方、インドに生まれた仏教は、生き残るためヒンズー教の教えを取り入れたことがあだとなり、かえってヒンズー教に吸収され、消滅の道を歩んだ。

皮肉なことだが、仏教は生れ故郷のインドで消滅し、周辺の東南アジア、中国、朝鮮、日本で花開いたといえる。

涅槃経の登場

その昔、釈迦は涅槃に入る(入滅)にあたり、弟子たちに「これからは自分の教えを拠り所として各々が努力せよ(自灯明、法灯明)」と説いた。これが阿含(あごん)涅槃経である。

一方、大乗仏教運動の後半、華厳経と同じころ登場するのが大乗涅槃経である。それまでの大乗仏教では、ブッダは外から自分を見守ってくれているとしたが、涅槃経ではブッダは自分のなかにいるとして、ブッダと自分は一体(如来蔵思想)となってしまった。ヒンズー教にきわめて近い思想である。

かつて釈迦が煩悩、執着を捨てよと言ったのに対し、涅槃経では自分のなかの仏性に気付くようにと方向転換したのである。

さらに、その対象が人から生きとし生けるものすべてに拡大され、あらゆる生き物に仏性が存在する(一切衆生悉有仏性)というところまで発展した。

中国で生まれた禅宗

涅槃経の思想を受け継ぎ、自らのうちに仏性を見つける坐禅修行(禅定)を実践したのが、禅宗である。

坐禅そのものは、釈迦の時代から仏教修業の徳目であったが、6世紀初め、インドの達磨が中国に渡って仏教集団をつくり、坐禅によって自らの仏性を悟る修業に明け暮れた。これが禅宗の始まりである。

禅宗は不立文字といって経典を持たず、眼目は信仰でなく坐禅による修業である。

鎌倉時代、栄西によって臨済宗が、道元によって曹洞宗が日本にもたらされたが、発祥の地・中国では宋の時代に衰亡し始め、明に至って絶滅した。

浄土教の興隆

大乗仏教運動の初期、「無量寿経」と「阿弥陀経」が北インドで、500年後の後期に「観無量寿経」が西域でつくられた(浄土三部経)。その後、中国を経て奈良時代、日本に伝わった。

浄土三部経は般若経や法華経と異なり、釈迦でなく「阿弥陀仏」が信仰の対象である。ちなみに阿弥陀仏は大乗仏教が創作したブッタであり、それまでは存在すらしていない。

浄土教では、釈迦は過去にいたブッダのなかの一人という世界観を廃し、釈迦のいる世界以外にも様々なブッダが住む世界があり、それぞれに大日、薬師など数えきれないブッダワールドが存在するとした。
浄土経は5世紀の初め中国に伝わり、白蓮社という念仏結社が生まれた。その後、唐の時代には、称名念仏により極楽浄土に往生しようという浄土思想が形成された。ひたすら阿弥陀仏にすがり救済を求める他力本願である。明代には禅などの諸宗と融合する傾向が強くなり、念仏禅のもととなった。

一方我が国では、平安期に比叡山の源信が、往生要集を記して浄土経を広めたが、平安末期、相次ぐ飢饉により餓死者が続出した。しかし寺院はこれを看過し、僧兵を擁して権勢を競ったため、世間には末法思想がはびこった。

末法思想とは仏法が正しく行われず、法滅により現世で救われるのは無理という厭世観に基づく。

この民心が自暴自棄に傾いていた頃、明るい光明を指し示したのが法然と親鸞であった。

法然は、修業はしなくても極楽浄土に行きたいと願い、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば誰でも念願成就すると説き、幅広く庶民に受け容れられた。

一方、親鸞になると、すべてをお任せすれば、阿弥陀仏のほうから手を差し伸べ、我々を浄土に呼び寄せてくれる。

「南無阿弥陀仏」を唱えるのは、願いというより感謝の行為であると言って、さらなる民衆の強い支持を得た。 究極の他力(絶対他力)である。

浄土経は般若経、法華経と異なり、善行や利他行を強いることもなく、読経すら必要としない。仏の教えに背いたとしても、むしろそういう者のための教えであるから、南無阿弥陀仏と念仏を唱えさえすれば、必ず救われるというのである。

こうして浄土経の教えは瞬く間に全国に波及し、法華経とともに我が国最大の仏教集団を形成し、現在に至っている。

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