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日本史ひとこま

アダムスと家康のこと

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江戸時代

アダムスと家康のこと

1600年の春、ウイリアム・アダムスが5大老の筆頭・家康の前に引き立てられたとき、尋問の次第によっては、海外追放か、悪くすると処刑かもしれぬと覚悟したに違いない。 大分の臼杵に漂着したオランダ船の乗組員22名のうち、自力で歩けるものは数名で...
戦国時代

正親町(おおぎまち)天皇のこと

頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、我が国の国土は朝廷と鎌倉幕府で二分され、鎌倉の勢力が徐々に凌駕する勢いにあった。 これに反発する後鳥羽上皇は、天下の宝刀「院宣」を発すれば全国の武士はこぞって京へ参集するものと考えた。そこで、意を決して鎌倉に挑...
江戸時代

明神の秀吉、権現の家康

538年、仏教が日本に入ってきたときから、神の子孫とされる天皇家では、自身の神と仏のとり扱いに頭を悩ませてきた。 奈良時代のはじめ、聖武天皇は仏教に帰依し、東大寺に大仏を造って人心を掌握しようと目論んだ。 ところが、神の子孫である天皇が仏を...
明治

山本権兵衛、東郷平八郎を後継指名

山本権兵衛の面構えは尋常でない。生来気性が激しく、青年時代から敵を射すくめるような鋭い視線に、相手は思わずたじろぐほどで、幾星霜を経てもその眼光に翳りはない。 信念を曲げず、口にしたことには責任をもち、潔いこと、終生変わらなかった。薩摩武士...
明治

山陽線 鉄道敷設秘話

「青年時代の失敗体験は、将来の成功の尺度となる。すなわち、失敗をどう思ったか、いかに対処したかで彼の生涯は決まる。」 そう言ったのは、普墺・普仏戦争を制し、「ドイツ陸軍の父」といわれる参謀総長モルトケである。モルトケは当時の先端技術「鉄道」...
江戸時代

松坂屋と竹中工務店の絆

名古屋の「いとう屋」といえば、のちの「松坂屋」としてつとに名高いが、江戸時代には尾張藩御用達商人として藩財政に関わり、明治維新後は公金を取り扱い、伊藤銀行、東海銀行を経て、現在の「三菱UFJ銀行」に至っている。 もともとは、信長の小姓であっ...
昭和

敗戦後の残像

学校に上がるまでの記憶は茫洋として掴みどころがないが、小学1年生になってやっと切れ切れではあるが、思い出すことがある。昭和28年のころで、敗戦後の傷跡をまだ引きずっていた。したがって、あまりいい思い出はない。 当時は、家族みんなでラジオを聞...
江戸時代

長州の怨念

若いころ、姫路城を見て、播磨52万石をもってしても、なお不相応な巨大城郭に驚いたものだが、その後、それは家康の命による薩長への防波堤つまり要塞だと教わった。 家康は後世、徳川に弓引くものは、恐らく長州か薩摩あたりと見当をつけ、瀬戸内沿岸に譜...
室町時代

貨幣を輸入していた日本

「びた一文払えない」などという。「びた」とは僅かな金という意で、「びた銭」とは、室町期に流通した永楽銭を模した偽造通貨である。 中国各地ばかりか日本でも、個人がひそかに隠れて鋳造するのであるから、いいものはできない。真ん中の穴がふさがったり...
鎌倉時代

運慶のリアリズム

建仁3年(1203年)は運慶にとって記念すべき年となった。東大寺南大門に巨大な金剛力士像が完成し、運慶は僧侶の最高位・法印に任ぜられたのである。 すでに治承4年(1180年)、平重衡(清盛の子)が、ことあるごとに平氏に反抗的な奈良の仏教徒に...
戦国時代

秀吉、家康が恐れた男・黒田官兵衛(如水)

関ヶ原の戦いのあと、帰国した黒田長政が、父・官兵衛に戦勝報告にやってきた。 「この度の勝利はひとえに甲州殿(長政)のはたらきによるものである。この功に何事をもって報いるべきといって、家康殿は自分の手を3度もとって感謝してくれました」と、長政...
戦国時代

細川幽斎の処世術

戦国期における細川幽斎の名は、戦国武将のあいだに特別な響きがあったとおもわれる。 剣術、弓術の達人であるばかりか、和歌・茶道・連歌に精通し、鯉料理の達人にして囲碁や猿楽にも造詣が深い、人もうらやむ風流人である。 幽斎は足利家一族の出身であり...
幕末

出島のオランダ商館長 ドゥーフ

江戸時代、わが国が西洋を覗き見ることができたのは、長崎出島のオランダのみである。 孤立化を懸念する徳川吉宗は、1720年、殖産興業、国産化奨励のため禁書令を緩和し、キリスト教に無関係の書物の輸入を認め、西洋知識の導入に乗り出した。 さらに田...
幕末

アーネスト・サトウの見た日本

慶応2年(1866年)、横浜で発行されていた、週間英字新聞「ジャパン・タイムズ」に匿名で掲載されたある論説が、徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳され、「英国策論」と題して出版された。 日本が国際社会に登場するためには、今の幕藩体制ではだめで、...
幕末

カッテンディーケの見た日本

嘉永6(1853)年、ペリーの開国要求に驚愕した幕府は、あわてて交易国オランダに相談をもちかけた。これに対しオランダは、老中阿部正弘に、日本の地理的条件からして海軍をもつことが第一であり、洋式海軍の創設には尽力を惜しまないと返答した。 長崎...
幕末

長州 暴発す

明治維新に先立つこと5年、文久3年(1863年)の長州は大変である。 前年には英国公使館に火をつけて大騒ぎをおこしたが、この年の5月には長州沖にいる外国船を突然砲撃し、こともあろうに長州一国で欧米4か国(米英仏蘭)を敵にまわした。 力でもっ...
江戸時代

杵築(きつき)藩家老・大原氏

別府から国東半島へむかって北へ30キロ走ったところに、杵築市はある。 鎌倉時代、豊後の領主・大友氏の一族が八坂郷木付荘を統治し、地名の木付(きつき)をとって姓とし、築城した。それが木付城の始まりである。 木付城の城主はその後、何度も入れ替わ...
江戸時代

井伊の赤備え

井伊直政と赤備え軍団 武田の猛将、山県昌景が赤備えで天下に名をはせたが、武田家滅亡のあと、家康は武田家旧臣を多数召し抱えた。かつて家康自身、三方ヶ原で完膚なきまでに打ちのめされた思い出がある。その象徴ともいうべき赤備え軍団を手中にしたかった...
江戸時代

加藤清正・忠広父子の悲運

加藤清正 家康にとってみれば、今後徳川家を脅かすのは、秀吉子飼いの武将たちであろう。 自分の存命中に、これらの武将を目立たぬように、ひとつひとつ潰しておかねばならない。 加藤清正もそのひとりであった。 関ケ原の戦いのあと清正を肥後一国の国主...
戦国時代

細川幽斎・忠興父子の身の処し方

細川藤孝(幽斎)のように才気ばしった男は、まわりがよく見えるだけに、人より先に行動してしまうため、かえって墓穴を掘ることが少なくない。 毎日が命がけの激動期には、このような人物が長命を保つことは稀である。 藤孝は足利義昭を皮切りに、信長、秀...
戦国時代

太閤はんの大阪城

その昔、大阪の地は海のなかにあった。そのなかで南北に丘陵をなす上町台地だけが、半島のごとく海に突き出ていた。台地が盛り上がったのは、豊中から岸和田に至る断層の動きによる。 上町台地の東側にある河内湾と西側の大阪湾には、長い年月を経て、淀川・...
室町時代

足利義政とその妻

応仁の乱 台風のあとに流木が積み重なって川をせき止め、水が溢れ出す光景をみることがある。しかし、死体が積み重なって川をせき止めたとなると、尋常なことではない。 かつてわが国最大の内乱が京都であった。20万もの兵が11年にわたって刃を交え、京...
古代

渡来人のこと

北朝鮮と日米韓の軋轢が高まる中、ひとたび戦火を交える事態ともなれば、朝鮮半島からの難民が大挙わが国を目指す可能性が現実味を帯びてきた。 じつは過去にも似たような事態があって、一度目は紀元前300年ころ、戦国時代の戦火を逃れ、中国東北部にいた...
古代

弥勒菩薩半跏思惟像

広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が国宝第1号に認定されたというだけで、当時からこの像がいかに魅力的な存在であったかが分かる。 仏像にしては珍しく、座位で右足先を左大腿に乗せ、右膝頭に右肘をついて物思いにふける半跏思惟像である。どちらかというと、人...
明治

大久保利通の東京遷都

慶応3年、徳川慶喜は大政奉還という奇手をうって、薩長の出鼻をくじいた。 倒幕の密勅を得て意気盛んな大久保、西郷は、猫だましを食らったように腰が砕け、武力行使ができなくなった。 欧米列強がわが国を虎視眈々と狙っている今、大久保は焦燥の念に駆ら...
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