江戸時代

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明神の秀吉、権現の家康

538年、仏教が日本に入ってきたときから、神の子孫とされる天皇家では、自身の神と仏のとり扱いに頭を悩ませてきた。 奈良時代のはじめ、聖武天皇は仏教に帰依し、東大寺に大仏を造って人心を掌握しようと目論んだ。 ところが、神の...
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松坂屋と竹中工務店の絆

名古屋の「いとう屋」といえば、のちの「松坂屋」としてつとに名高いが、江戸時代には尾張藩御用達商人として藩財政に関わり、明治維新後は公金を取り扱い、伊藤銀行、東海銀行を経て、現在の「三菱UFJ銀行」に至っている。 もと...
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長州の怨念

若いころ、姫路城を見て、播磨52万石をもってしても、なお不相応な巨大城郭に驚いたものだが、その後、それは家康の命による薩長への防波堤つまり要塞だと教わった。 家康は後世、徳川に弓引くものは、恐らく長州か薩摩あたりと見当をつけ、...
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杵築(きつき)藩家老・大原氏

別府から国東半島へむかって北へ30キロ走ったところに、杵築市はある。 鎌倉時代、豊後の領主・大友氏の一族が八坂郷木付荘を統治し、地名の木付(きつき)をとって姓とし、築城した。それが木付城の始まりである。 木付城の城主はそ...
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井伊の赤備え

井伊直政と赤備え軍団 武田の猛将、山県昌景が赤備えで天下に名をはせたが、武田家滅亡のあと、家康は武田家旧臣を多数召し抱えた。かつて家康自身、三方ヶ原で完膚なきまでに打ちのめされた思い出がある。その象徴ともいうべき赤備え軍団を手中にした...
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加藤清正・忠広父子の悲運

加藤清正 家康にとってみれば、今後徳川家を脅かすのは、秀吉子飼いの武将たちであろう。 自分の存命中に、これらの武将を目立たぬように、ひとつひとつ潰しておかねばならない。 加藤清正もそのひとりであった。 関ケ原の戦いの...
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武士の給料

江戸時代、1万石以上の知行地をもつものを大名といい、それ以下の幕府直参を旗本、御家人といった。 旗本は200石以上、将軍へ御目見えできる者で、御家人はそれ以下の給与所得者である。旗本は知行地を治める能力があると認められ、知行取りと...
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厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)

家康は江戸に幕府を開くにあたり、京都の朝廷に対抗して天台宗の大寺を建立しようと計画し、家光によって東叡山寛永寺が完成した。 最も権威ある天台宗・比叡山延暦寺を意識してのことである。家康自身は浄土宗であるから、これを天台宗と同格に引...
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古文辞学の祖 荻生徂徠

中国において儒教は紀元前1世紀、漢の時代に国教となったが、その後外来の仏教に圧倒され鎮火していた。 10世紀、宋の時代になって官僚を中心に儒教復活の機運が盛り上がり、13世紀になって朱熹によって朱子学が完成した。 庶民ではな...
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時代を先駆けした田沼意次

儒教は農業を基盤とした世界であって、商業では決してない。 まして士大夫たる武士が商売に携わるなど、想像だにできぬことであった。 そういう観念で頭ががんじがらめになっている江戸城に、突然ふって沸いたように、商業で幕府の財政を立...
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柳生宗矩の見据えた先

その日の生活にも難渋する少年期を送った宗矩は、幸運にも父、石舟斎の武芸(無刀取り)が家康の目に留まり、その縁で徳川家に奉公する身となる。 その後、関が原や大阪夏の陣に活躍した後、将軍家剣術師範という武人としてこの上なき地位についた...
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甲子夜話(かっしやわ)

文政4年(1821年)11月17日、甲子(きのえね)の夜、平戸藩の元藩主、松浦(まつら)静山は親友、林大学頭(だいがくのかみ)の勧めにより、心にとどめた日常の出来事を日々書き留めることとした。 62歳のことである。 以後20...
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