アダムスと家康のこと

1600年の春、ウイリアム・アダムスが5大老の筆頭・家康の前に引き立てられたとき、尋問の次第によっては、海外追放か、悪くすると処刑かもしれぬと覚悟したに違いない。

大分の臼杵に漂着したオランダ船の乗組員22名のうち、自力で歩けるものは数名で、大阪城まで呼びつけられたあげくの、取り調べである。

秀吉によるバテレン(宣教師)追放令から3年、外国人に対する視線は厳しくなっている。いかがわしい漂流民となれば、命はない。

 

家康の詮議

アダムスの後述によれば、家康はしばし無言で自分を凝視していたが、徐々に膝を乗り出したたみかけるように自分を質問攻めした。詮議は深夜に及んだものの、家康はことのほか上機嫌であったという。

なにしろ当時、読み書きすらろくに出来ない船乗りたちの中で、アダムスは複数の言語をあやつり、航海術、船の建造術、数学(幾何学)、天文学、世界情勢に精通している。

アダムスは、自分はイギリス生まれの航海士で、極東に交易ルートを模索するオランダの航海士募集に手を挙げたこと、4隻の船で極東を目指したものの辿り着いたのは1隻のみで、仲間の多くを失った経緯を述べた。

そして、ローマ法王により世界はスペインとポルトガルに分け与えられており、そのかわりにキリスト教(カトリック)の布教が義務付けられていること、ヨーロッパでは守旧派のカトリックと新興のプロテスタントとの争いが熾烈であり、その確執が遠くアジアにも及んでいること、30年にわたり、スペインからの独立を求めて戦っているオランダの立場など、世界情勢を詳細に説明し、家康を心服させた。

また彼はプロテスタントであって、カトリック(スペイン、ポルトガル人達)のような布教活動は考えておらず、交易のみを希望していると明言した。

家康はたいしたインテリだなと思ったに違いない。そして被告人の立場にもかかわらず、天下人の自分に臆せずはっきりものを言う正直さが気に入り、彼を通訳および外交アドバイザーとして登用することにした。

 

さらに、漂着したリーフデ号に自衛のための火縄銃、大砲、火薬が積載されているというニュースも家康を喜ばせた。

ちょうど関ヶ原合戦(1600年)の半年前で、秀吉亡き後、家康と三成のあいだには不穏な空気が流れている。家康は秀吉の面影を引きずるグループを、この際一気に潰してしまいたいと念じている。それには意のままに動かせる軍団と、敵を圧倒する武器が必要である。

大砲があると聞いて、家康が小躍りしたことは想像に難くない。

 

一方、アダムスは予想外の展開に困惑した。家康の気に入られたのはいいが、彼はイギリス人で、祖国には妻も子もいる。日本には貿易ルートの開拓に来たのであって、このまま住みつくわけにはいかない。

 

家康の深謀遠慮

しかし家康には別の思惑がある。

未だ天下を平定したとはいえぬ家康にとって、ポルトガル人が持ちこんだ鉄砲・大砲など武器・火薬は喉から手が出るほど欲しい。そのために経済力をつけることは愁眉の急である。

家康の腹を見透かして、布教と貿易をセットで迫るポルトガル、スペイン(カトリック系)は厄介な存在だ。これに対し、オランダ、イギリス(プロテスタント系)は宗教抜きだから、安心して交易できる。

 

しかし、長年、南蛮貿易(主にポルトガル、スペイン人との交易)で得られている利益は極めて魅力的で、多少不自由はあっても彼等を外すわけにはいかない。

たとえば、戦国武将に必携の鉄砲や鉛(鉄砲の弾丸の材料)、硝石(弾薬、火薬の原料)は、彼らを通さないと入手が困難だ。一方で、輸入の筆頭である中国の生糸や絹織物を彼等の言い値で買わされるのは腹立たしい。ここにオランダも加えて競わせれば、値段は安く抑えられるだろう。

 

西国大名がこぞって南蛮貿易に執心しているのも、何を隠そう軍備増強が目的である。一方で彼等が布教活動を大目に見たため、各地に宣教師が派遣されて教会が建ち、信者の数は50万人にまで達しているという。

 

家康はこの趨勢を苦々しく眺めている。

関ヶ原で実権を握ったとはいえ、未だ大阪城には秀吉の子・秀頼が健在で、とくに西国には隠然たる影響を及ぼしている。

これに対し家康は、秀頼に秋波を送る西国大名の力を削ぐ手立てはないかと、あれこれ頭を巡らせた。その結果、彼等の水軍力を削ぐ目的で、500石積以上の大型船を没収し、建造することを禁止した。

一方で幕府のみは堅牢な船を造り、東南アジア、メキシコなどへ乗り出して、貿易の販路開拓を画策した。このため、家康はアダムスの造船技術に期待し、80トンの帆船、3年後には120トンの帆船を造らせた。アダムスもこれによく応えた。

期待以上の出来ばえに家康は大いに喜び、アダムスに「三浦按針」という名を与え、250石の旗本に取り立てた。異国人としては初めて、武士が誕生したことになる。同時に、相模国逸見(神奈川県横須賀市)に所領をも与えられた。

 

イギリスの家族が気になるアダムスにしてみれば、有難迷惑な報奨である。家康の顔色をみては、帰国の話しを切り出すのだが、彼は聞かぬふりをして応じない。

そのうち、紹介された日本人女性とのあいだに2人の子供が生まれ、帰国の話しは立ち消えとなってしまった。

狡猾な家康の計略にかかったともいえる。

 

家康、禁教令を出す

家康は当初、キリスト教の布教には比較的寛容だった。しかし南蛮貿易の興隆に伴って、予想外にキリシタンが増えているのに恐怖を覚え始めた。権力者にとって、宗教勢力ほど怖いものはない。いざとなれば、彼等は命を捨ててでも、幕府より教祖に従うからである。

事実、彼は若いころ、三河の一向一揆で、心胆を寒からしめる経験をしている。

慶長14(1609)年、マカオで起きたポルトガルとのトラブルを契機に、とうとう家康はキリシタン禁教令を出すに至った。こうしてスペイン、ついでポルトガル船の来航が禁止され、100年にわたる南蛮貿易は消滅した。

 

同時に幕府がオランダと貿易を独占できるよう、朱印状を発行した。こうすれば、貿易における旨みは幕府のみが享受できることになる。

 

アダムスの尽力

英国人のアダムスは、オランダと同じプロテスタントのイギリスもまた、日本と通商するべきだと考え、祖国のために尽力した。

その結果、1613年、英国より通商目的でグローブ号が平戸に来航した。アダムスは仲介の労をとり、イギリス人一行と家康に面会し、通商の許可を得るのに成功した。こうしてイギリス商館が平戸に造られたのであったが、その後はあまりうまくいかなかった。

不運にもオランダ商館との競争に敗れ、10年ほどで日本から撤退することになった。(このとき、アダムスはすでにこの世にいない。)

 

グローブ号の来航時、アダムスは家康より一時帰国の許可を得たのだが、あれほど望んだにもかかわらず、なぜか帰国を断念した。

じつは来日したグローブ号の船長・セーリスと不仲となったこと、日本で安定した家庭をもったこと、帰国しても英国では一航海士にすぎず、今ほど高い地位は得られないと考えた末、帰国を断念したといわれる。

イギリスから来た若きエリート・セーリスからみれば、アダムスはボスの家康に取入ってうまく立ち回っている船乗りとしか見えず、苦々しく思ったのではないか。

驚くべきことだが、当時の日英関係は、じつに家康とアダムス二人によって支えられていた。このため、1616年に家康が、ついで1620年にアダムスが他界すると、次第に両国関係は薄れていき、交易の話しは立ち消えとなった。

 

秀忠の時代となる

家康のあとを継いだ秀忠は、海外に打って出ようとする家康とは反対に、内向きな外交に終始した。外国との貿易を平戸のみとし、急速に鎖国へ向けた体制作りに入っていった。

もはやアダムスの知識は必要とされず、彼の出る幕はなくなったのである。

家康亡き後アダムスは、すっかり老け込んでしまった。仕事も息子に譲り、閑職に就いて、15年に及ぶ激動の時代を懐かしむ日々を送った。そして家康に遅れること4年、55歳になったアダムスは、祖国の土を踏むことなく失意のうちに世を去った。

 

今も慕われるアダムス

1620年、平戸で病死したアダムスは、平戸のイギリス商館近くにある外国人墓地に葬られた。しかし、鎖国政策の強化に伴って商館が破却され、その際、彼の墓地も破壊されてしまった。

戦後になって、徳川幕府創設期における彼の功績が見直され、彼の遺徳を偲ぶ声が湧き上がってきた。このため、昭和29年、平戸イギリス商館跡近くの崎方公園に再び彼の墓が建立された。

さらに昭和39年、彼の生誕400年を記念し、イングランドの妻の墓地から小石を取り寄せ、三浦按針夫婦塚が建立された。粋な計らいといえる。

 

生前、アダムスは領地であった横須賀市逸見の住民からも慕われていたと伝えられる。逸見にある塚山公園には、彼の遺言によって死後、夫婦2対の供養塔が建てられた。

そして、領地逸見や彼の江戸屋敷があった日本橋按針町の人々によって、今なお、アダムズの供養は続けられているという。

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