日本史ひとこま/nihonsi

日本料理中興の祖・藤原山蔭の包丁式

日本料理中興の祖・藤原山蔭の包丁式

日本料理中興の祖・藤原山蔭の包丁式


平安の初期、料理通であった光孝天皇が四条中納言、藤原山蔭に命じて料理作法(庖丁式)の新式を定めた。

当時、遣唐使を通じて唐の食習慣・調理法が日本にもたらされ、これが日本風に消化されたものを故実という形で藤原山蔭がまとめあげた。

山蔭は初めて食物を調理・調味づけた始祖であり、包丁の神、料理の祖神ともいわれ、日本料理中興の祖といわれる所以である。

山蔭の確立した庖丁式は、藤原北家の四条家に家職として伝えられ「四条流」と呼ばれることになる。

室町時代には将軍家や公家社会のみならず武家社会においても、四条流は広く浸透した。

江戸時代にいたっても、四条流の流れをくむ四条園部流が幕府の台所を預かることとなり、のちに各藩へも普及した。

室町時代後期に記された『四条流庖丁書』には、俎の名所・寸法などから具体的な料理法、箸・膳の飾り方にいたるまで詳細な記述がなされている。

魚鳥の上下については、海のものを上、川のものを中、山のもの(雉など)を下としているが、鯉は魚の中で最上位としている。

藤原山蔭が鯉をさばいて以来の伝統と言われる技法は「庖丁式」として今に伝わる。

とくに藤原山蔭を祭神とする山蔭神社を始め吉田神社や高家神社では例祭に、式庖丁が奉納される。

手を魚に触れずに、庖丁と菜箸のみで魚を捌くという厳かな式であり、めでたい瑞祥表現を目的としている。

たまたま、懇意にしている藤本大吉氏の叙勲を祝う会に出席させていただき、この庖丁式を見る機会を得た。

庖丁式の代表的流派・生間(いかま)流庖丁式である。

雅楽の流れるなか、家元である包丁師が烏帽子・袴・狩衣(かりぎぬ)という装束で現われ、右手に包丁、左手に真魚箸(まなばし)を持ち、大きなまな板の上の鯉をさばいて盛り付けていく。

その立ち振る舞いは茶道における所作に通じる。

儀式であるから、包丁と真魚箸を持った両手を開いては交差しながら、調理に入るまでに何度も空を切った。

まな板とその上に横たわる鯉を清め、神に奉げるという趣旨らしい。

神社のお祓いに似た儀式である。

鯉はすでに息絶えているから、包丁が入っても身じろぎしない。

ただ、ざくり、ざくりという生々しい音が静寂のなかに響いて、それまでの雅な空気が打ち消された。

鯉は頭部、胴体、尻尾に分割され、それぞれ形を整えられて終了した。

鯉の捌きをみていて、ふと細川幽斉のエピソードを思い出した。

彼は文武両道に長けた戦国武将としてつとに名高いが、文芸は和歌・茶道・連歌・蹴鞠・囲碁・猿楽・料理を網羅した達人で、当代並ぶ者なき教養人といわれた。

しかも当時ただ独りの古今伝授の伝承者(古今和歌集の解釈・学説の伝授者)であり、関ヶ原の合戦において後陽成天皇が古今伝授が途絶えるのを恐れ、勅命により幽斎を助けたのは有名なはなしである。

あるとき、毛利輝元との会席で、輝元から是非にと肴を所望された。

幽斉は携帯していた挟箱からおもむろに包丁を取り出し、箱の蓋の上に奉書2枚敷き、その上に鯉をのせて見事にさばいたというのである。

輝元が敷いていた奉書を取り上げると、箱にも紙にも包丁の傷一つ付いていなかったという。

輝元の心中は察するに余りある。

当時の武人にとっては、調理など眼中になかったであろうと考えがちだが、あながちそうでもない。

匠の技はそれ相応の評価を得ていたことが分かる。

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