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日本史ひとこま

巨大古墳の登場

日本史ひとこま

古代

巨大古墳の登場

2世紀後半、40年ほどつづいた倭国大乱のあと、結局誰も権力を掌握しきれず、権威の象徴として卑弥呼が選ばれた。 ただし彼女に任せたのは呪術による権威だけで、卑弥呼の邪馬台国が実権を握ったわけではない。象徴天皇のごとき地位にいる。 弥生時代と呼...
幕末

徳川慶喜の武士道

家茂の死から5ヶ月が経過した慶応2年12月、執拗に将軍職を固辞していた慶喜が第15代将軍職に就任した。 「死に体」と揶揄される幕府を立て直し、アメリカなど外国勢力の攻勢をいかに防ぐか、国内では薩長連合とのつばぜり合いをどう納めるか、難問山積...
江戸時代

武士の給料

江戸時代、1万石以上の知行地をもつものを大名といい、それ以下の幕府直参を旗本、御家人といった。 旗本は200石以上、将軍へ御目見えできる者で、御家人はそれ以下の給与所得者である。旗本は知行地を治める能力があると認められ、知行取りと呼ばれた。...
江戸時代

厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)

家康は江戸に幕府を開くにあたり、京都の朝廷に対抗して天台宗の大寺を建立しようと計画し、家光によって東叡山寛永寺が完成した。 最も権威ある天台宗・比叡山延暦寺を意識してのことである。家康自身は浄土宗であるから、これを天台宗と同格に引き上げ、芝...
幕末

尊王攘夷

江戸時代、庶民にとって仰ぎ見るのは徳川将軍家であって、京にいる天皇ではない。 この時期、幕府には800万石の収入がありながら、朝廷は幕府からわずか3万石を付与されるだけで、生きながらえている状況である。天皇は京都御所で息をひそめており、庶民...
戦国時代

豪勇、佐々 成政(さっさ なりまさ)

これ以外生き延びる手はないという危機的状況でなければ、だれも真冬の北アルプスを横断するなどという、無謀な冒険はしないはずである。 ところが400年も前にその無謀に挑んだ男がいる。富山城主・佐々 成政である。 戦国期の動乱のなかで、成政は切羽...
明治

明治維新誕生の不思議

明治維新というクーデターが、頂点に明確な統率者をいだかないまま行われたというのは、どうにも奇妙な現象というほかない。 革命勢力の中心となった薩長の藩主、島津久光、毛利敬親はともに郷里にいて、部下のものから戦況を聞くだけである。 実働している...
平安時代

藤原氏はどこへ行ったか?

藤原氏は大化の改新の立役者である中臣鎌足を始祖とする。 もともと中臣氏は代々、神事・祭祀を司る宮廷貴族であった。 中臣鎌足は死に望んで天智天皇より藤原姓を賜り、息子の不比等からは中臣氏でなく藤原氏を名乗るようになった。 ちなみに藤原の名は鎌...
鎌倉時代

8代執権 北条時宗の苦悩

我が国は直接大陸の利害が及ぶことのない孤島である。このためこちらから手をださなければ、容易に外から攻められることはない。 しかし、2度だけ手を出したことがある。一度目は天智天皇、2度目は太閤秀吉である。 663年、天智天皇は百済の要請に応じ...
昭和

エコロジーの提唱者・南方熊楠(みなかたくまぐす)

南方熊楠は、我が国でエコロジーを初めて唱えた人である。 エコロジーとは人間と自然とが共存していこうとする考え方で、「地球にやさしい生活」とか、「環境にやさしい生活」と言い換えることができる。 明治政府は国家神道の権威を高める為、神社合祀令を...
鎌倉時代

本願寺物語

もともと本願寺はお寺でなく、廟堂である。 1262年、親鸞は亡くなったあと、「大谷」の地に納骨され、のちに信徒が参詣するための廟堂が建てられて「大谷廟堂」と尊称された。 廟堂は親鸞の末娘・覚信尼の子孫が代々世襲、管理するようになり、3代あと...
鎌倉時代

異色の上皇 ”後白河上皇と後鳥羽上皇”

現役の天皇が次の天皇を意中のひとに継がせるため、早めに天皇を辞して上皇となり、若き天皇が育つまで後ろから操る傀儡政権の仕組みを、院政と呼ぶ。 院とは上皇のこと。したがって院政をしいて権力を振るう上皇は「治天の君」と呼ばれた。最高権力者の意で...
古代

六朝文化の伝来

我が国ではしばしば空白の4世紀といわれるが、この時期全国の豪族なかで頭ひとつ抜けたヤマト連合政権が前方後円墳をつくって諸豪族に威容を見せつけ、一方では鉄の産地任那、百済に吸い寄せられるように朝鮮半島へ乗り出した。武器、生活器として鉄を持つも...
江戸時代

古文辞学の祖 荻生徂徠

中国において儒教は紀元前1世紀、漢の時代に国教となったが、その後外来の仏教に圧倒され鎮火していた。 10世紀、宋の時代になって官僚を中心に儒教復活の機運が盛り上がり、13世紀になって朱熹によって朱子学が完成した。 庶民ではなく、士大夫つまり...
平安時代

日本料理中興の祖・藤原山蔭の包丁式

平安の初期、料理通であった光孝天皇が四条中納言、藤原山蔭に命じて料理作法(庖丁式)の新式を定めた。 当時、遣唐使を通じて唐の食習慣・調理法が日本にもたらされ、これが日本風に消化されたものを故実という形で藤原山蔭がまとめあげた。 山蔭は初めて...
幕末

松陰の死生観

「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北...
幕末

勝海舟の見識

勝が西郷隆盛と初めて会ったのは元治元年(1864年)9月、大阪である。 西郷は第1次長州征伐で幕府の消極的な戦闘準備を不満とし、軍艦奉行である勝の意見を求めに来た。 このとき勝は、今は自分の藩の利害などを考え内部抗争しているときではない。 ...
幕末

竜馬と象二郎

慶応3年の土佐藩はとりわけ多忙である。 その年の1月、後藤象二郎が長崎にやって来たのを知った亀山社中の面々は、竜馬に土佐勤王党の仇敵である彼を斬ろうと気色ばんだ。 ところが実際竜馬が会ってみると、意外にも馬が合った。 仇敵でありながら意気投...
幕末

“そうせい侯” 毛利敬親(たかちか)

米国との通商条約を朝廷の許可を得ずに結ぶとは何事かというのが水戸・尾張・越前藩主ら一橋派の抗議である。 安政5年4月、大老となった井伊直弼は、話しの内容はともかく彼らが許しも得ずに登城したのは不敬の至りであるとして、強引にも彼ら全員を隠居、...
幕末

水戸学のジレンマ

水戸家は徳川御三家の一つで、唯一江戸に常勤し将軍を補佐する副将軍である。 その水戸家が幕末にいたり、将軍家にとって獅子身中の虫になってしまった。 すなわち水戸学なるものがあろうことか、倒幕派の思想的支柱になったのである。 その発端は水戸黄門...
幕末

島津久光のジレンマ

万延元(1860)年桜田門外の変で井伊直弼という強烈な個性を失って以来、幕府は政治の舵取りを失い迷走状態となった。 さらには外国の威圧に腰砕けとなって、さかんに朝廷の顔色を窺うようになった。 公武合体はこの弱腰からでた理屈で、もはや幕府が自...
江戸時代

時代を先駆けした田沼意次

儒教は農業を基盤とした世界であって、商業では決してない。 まして士大夫たる武士が商売に携わるなど、想像だにできぬことであった。 そういう観念で頭ががんじがらめになっている江戸城に、突然ふって沸いたように、商業で幕府の財政を立て直そうとする人...
江戸時代

柳生宗矩の見据えた先

その日の生活にも難渋する少年期を送った宗矩は、幸運にも父、石舟斎の武芸(無刀取り)が家康の目に留まり、その縁で徳川家に奉公する身となる。 その後、関が原や大阪夏の陣に活躍した後、将軍家剣術師範という武人としてこの上なき地位についた。 身の保...
幕末

鯨海酔侯(げいかいすいこう)

文久2年、江戸に幽居する山内容堂は片腕と頼む吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党のへの憎悪を募らせていた。 もともと彼は、幕府のおかげで奇跡的な幸運を得て藩主となった経緯がある。 幕府には人一倍恩義を感じていた。 したがって時流が倒幕に向かってい...
江戸時代

甲子夜話(かっしやわ)

文政4年(1821年)11月17日、甲子(きのえね)の夜、平戸藩の元藩主、松浦(まつら)静山は親友、林大学頭(だいがくのかみ)の勧めにより、心にとどめた日常の出来事を日々書き留めることとした。 62歳のことである。 以後20年間毎日欠かさず...
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