日本史ひとこま/nihonsi

太閤はんの大阪城

太閤はんの大阪城

太閤はんの大阪城


その昔、大阪の地は海のなかにあった。そのなかで南北に丘陵をなす上町台地だけが、半島のごとく海に突き出ていた。台地が盛り上がったのは、豊中から岸和田に至る断層の動きによる。

上町台地の東側にある河内湾と西側の大阪湾には、長い年月を経て、淀川・大和川から運ばれた土砂が堆積して陸地化が進み、現在の大阪平野が形作られた。したがって堅固な上町台地に比べ、大阪平野の地盤はさほど頑強でない。

大阪城が造られた上町台地の北端は高く屹立し、絶壁の下を流れる淀川が人々の侵入を拒否している。さらに台地の東西は低い湿地帯で、一気に駆け上がるのは困難である。

上町台地は北から南にゆっくりと下っていき、現在の天王寺、阿倍野区を経て住吉大社あたりで平地に至る。

聖徳太子が建てた四天王寺も、大化の改新のあとの難波京もこの台地につくられた。施政者にとってまわりから仰ぎ見る位置に自らを置くのは、人心掌握のためには必須の手法といえる。

戦国の争乱で山科本願寺が焼き討ちにあったのち、本願寺宗主・証如は上町台地の北端に建つ石山御坊に本願寺を移し、まわりに堀・塀・土塁を配して要塞化した。

さらに石山本願寺は三方を河川・湿地に囲まれた天然の要害にも恵まれ、天下布武を唱えて進撃する信長を、10年以上にわたって跳ね返したのである。

信長はこの攻城戦によぼど懲りたとみえる。『信長記』のなかで、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」と、この難攻不落の城砦を讃え、天下統一の暁にはここに築城を構想していたといわれる。

豊臣秀吉

本能寺の変に倒れた信長に代わって、その夢を実現したのは豊臣秀吉である。秀吉もまた、この石山本願寺の跡地に注目し、自らの城を築こうとした。

秀吉の構想は信長の安土城をモデルにしている。しかも、信長に引けを取ったといわれぬため、すべての点で安土を上回ることに執心した。

秀吉は1年半をかけて本丸を築城し、その後15年をかけて難攻不落の城を完成させた。

そして配下の大名に命じて周囲に屋敷を造らせ、近畿全域から商人、職人を集め、大阪平野に巨大都市を創りあげた。このため他のまちにくらべ、町人の割合が際立って多く、まちは活気に溢れた。

こうして大阪のまちは国内最大の都市となり、朝夕、大阪城天守閣を望む住民たちは、「太閤はんのお城」と言って胸を張った。

大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させた徳川軍は、この戦いで大阪城を破壊しつくしただけでなく、略奪、殺害など暴虐の限りをつくし、大阪の街をすっかり荒廃させてしまった。住み家を追い出された大阪の住民にとって、徳川憎しの思いがつのったのは当然である。

大坂城の再建

しかしながら、徳川氏は大阪を西国への監視拠点と位置づけ、もう一度大坂城を再建したのち、この地を直轄領とした。したがって城主は歴代将軍自身であるが、実際は譜代による城代が務めた。

1620年、2代将軍徳川秀忠によって、豊臣の記憶を消し去るため、10年をかけて壮大な大阪城の建設が始まった。秀忠は10メートルに及ぶ盛り土をした上に、秀吉が築いた石垣の2倍に達する石垣を積みあげたため、秀吉がつくった城は完全に地中に埋もれた。

当時の大阪住民にとって、いくら立派な城を造られても、懐かしむ相手は豊臣家であり、進駐軍である徳川家には決して心を許さなかったであろう。

一方、政権を掌握した徳川氏は、海路に不向きな江戸にくらべ、海運に恵まれた大阪の地に着目した。

そして大阪の河川を改修し、水路、橋、蔵屋敷を造って年貢米をはじめとする物流の拠点とした。このため時代が進むにつれ、大阪は全国経済の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれるようになった。それに伴い、徳川に対する憎しみも薄れていったものと思われる。

秀忠が築いた大阪城の天守は、残念ながら僅か36年後、落雷に会って消失し、江戸時代を通じて大阪城は天守をもたぬ城となった。

その後200年を経て、幕末、大阪城で病没した家茂の後継者となった徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いに敗れたのち、大阪城に兵を残したまま江戸へ逃げ帰った。この混乱のなかで、城内の兵によると思われる火災が発生し、大阪城内の建物は多くが灰燼に帰した。

徳川氏は自らが造った大阪城を、自分の手で燃やしてしまったことになる。結局、鳥羽伏見の敗戦は、徳川氏が政権を降りるターニングポイントになった。

城の盛衰は、織田、豊臣、徳川ともに、各氏の命運を象徴していることがよく分かる。

明治維新を迎えて、大阪城のあとは陸軍用地に供された。本丸内にも軍用施設が造られ、一般市民の出入りは禁止された。

天守再建計画

ところが、昭和3年、昭和天皇即位を祝って天守の再建計画が持ち上がると、市民の寄付が殺到し、驚くべき早さで天守閣が復興した。

復興天守の初層から4層までは、徳川時代風(白漆喰壁)とし、5層目は豊臣時代風(黒漆に金箔)という折衷様式になった。当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート造りで、内部にはエレベーターも設置された。

これが現在われわれが見ることのできる天守閣である。

太平洋戦争における大阪大空襲では、天守閣はなんとか戦災を免れたが、鳥羽伏見の戦火を免れていた多くの櫓(やぐら)が焼失した。

したがって現在みられる遺構は、乾櫓、千貫櫓、金藏、金明水井戸屋形、一番櫓、六番櫓など一部に限られている。とはいってもこれらの遺構はすべて、豊臣でなく徳川の手によって造られたものである。

戦後、官民挙げて大阪城復興計画が推進され、現在は広大な大阪城公園となって市民の目を楽しませている。

ちなみに現在、大阪城公園は甲子園球場が27個入る広さといわれるが、それは大阪冬の陣のあと家康が命じた惣堀埋め立ての結果である。

秀吉の時代、大阪城の広さは実にその4倍にも達していたことが知られている。

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