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細川幽斎の処世術

細川幽斎の処世術

細川幽斎の処世術

Walkerssk / Pixabay

戦国期における細川幽斎の名は、戦国武将のあいだに特別な響きがあったとおもわれる。

剣術、弓術の達人であるばかりか、和歌・茶道・連歌に精通し、鯉料理の達人にして囲碁や猿楽にも造詣が深い、人もうらやむ風流人である。

幽斎は足利家一族の出身であり、将軍の命で、管領・細川氏の養子となった。もともと武力で名を馳せた家柄ではない。若き頃は将軍家近習である。

永禄8年、13代将軍義輝が松永弾正らに殺害されると、のちの将軍・義昭を救い出すのに成功。その後、彼を連れスポンサーを求めて諸国を放浪し、越前・朝倉義景のもとに身を寄せた。

そして、偶然そこに居候していた明智光秀と懇意になる。光秀も、滅びたとはいえ美濃の守護大名・土岐一族の出身といわれ、有職故実に精通したインテリである。ともに落魄の身ではあるが、この時代には珍しい教養人である。

両者は武力でなく、知力で戦国の世を生き抜こうとしている。さすれば、狡猾といわれようと処世術だけが頼りである。

ほどなく、光秀は朝倉氏を見限って織田信長に仕えるようになる。

主君・信長に仕える

幽斎は商品価値の高い義昭を手中にしている。落ちぶれたりとはいえ、室町将軍である。義昭さえ連れておれば、自分も高く売れると踏んでいる。こうして永禄11年、信長が入京するのに将軍を奉じる必要がでてきた段階で、義昭を連れ信長に謁見するのである。

この時点で、幽斎は今後、主君は信長ただ一人と腹を決めている。ここで主君を選びそこなえば、自身ばかりか一族郎党の破滅となる。彼にとっては最初の大きな賭けであった。

そのうち義昭と信長の間に隙間風が吹き始める。信長が義昭を軽んじたからである。ひそかに義昭の動向を注視していた幽斎は、速やかに義昭の叛意を信長へ伝えた。

これに応じて、信長は上洛するや、京より義昭を追放したのである。これが室町幕府の終焉となった。

幽斎が義昭を道具とみていたことがよく分かる。

天正6年(1578年)、信長の薦めによって幽斎の嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)の婚儀がなるただし、幽斎にとって光秀は上司である。対等とは言えない。

天正10年、本能寺の変を聞いた幽斎はただちに剃髪して隠居した。表向きは信長に弔意をしめす意思表示といえるが、無論光秀の誘いを断る口実である。

このまま秀吉や勝家らが黙っているわけがなく、光秀にはとても天下をとる器量はない。幽斎はそう読んで、光秀の誘いに乗ろうとはしなかった。

主君・秀吉に仕える

間髪を入れず幽斎は、柴田勝家との決戦に挑む秀吉に、躊躇なく従った。信長のあとは秀吉と、値踏みしていたといえる。2度目の賭けにも成功したといえる。

天下を取ったとはいえ、秀吉は農民の出であるから、身分高き者には腰が引け勝ちであり、貴族趣味には憧れがある。幽斎はなんといっても当代一の文化人である。秀吉は彼を格別丁重に扱い、自ら歌道の指導を受けた。

古今伝授をうける

二条家が絶えた後、三条西家に代々伝わる古今伝授は、一子相伝の秘事である。息子が幼かったとはいえ、三条西実枝が、高弟の幽斎に古今伝授したのは、よほど彼を見込んだとしか云いようがない。

幽斎は幼少期を、母の里である京の公家・清原家で過ごした。清原家は学問の家柄であり、ここで彼の和歌の素養が培われたものと思われる。

この時期、彼は他の追随を許さないほどに博覧強記であった。

ただし当時の歌道には、華やかさのわりに、心に響くものが少ない。技巧を凝らすのに夢中になり過ぎたきらいがある。

幽斎の和歌も同様であった。幽斎は優れた学者ではあったが、必ずしも優れた作家とはいえなかった。

しかし、この古今伝授の伝承者であったことが、幽斎を救った。伝承者は常に一人しかいないからである。

関ヶ原の直前、嫡男忠興は兵を率いて家康の元におり、田辺城の幽斎はわずか500の手勢で留守居をしていた。たまたま関ヶ原に向かう1万5千の西軍がそれに気づき、攻城戦を仕掛けた。田辺城はひとたまりもない。

このとき、天皇は古今伝授が途絶えるのを大いに恐れ、勅命により直ちに幽斎を救命したのである。このニュースは、当時の戦国武将に驚きをもって伝えられた。前代未聞の珍事であった。

主君・家康に仕える

幽斎は慶長3年、秀吉が他界する前より、つぎは家康と読んでいた。

当然、早くから家康に接近し、親交を深めた。幽斎は息子の忠興に家康に忠誠を誓うよう説得し、忠興もこれに従った。

幽斎は、関ヶ原のごとき大規模な戦いでは、調略によってしばしば勝負が決することを知り尽くしていた。

これをうけて、忠興も、関ヶ原に先立つ小山会議で福島正則を調略し、ついで毛利本隊の抑えとして、吉川広家と小早川秀秋の調略に成功し、その結果、関ヶ原を制したのであった。

幽斎の読みは外れていなかった。忠興は関ヶ原の戦い後、家康から豊前小倉藩40万石の大封を得たのである。

しかも、忠興の子忠利の代になって、熊本藩主加藤忠広が改易となり、忠利は14万石を加増され、肥後熊本藩54万石の領主となった。

その後、幽斎は京都吉田に移り、悠々自適な余生を送ったという。

幽斎の見事な処世術

幽斎の成功は、主君の選択を誤らなかったと同時に、2番手になろうとしなかったことにある。

彼はいったん覇権を握ったものが、つぎに標的にするのは2番手であることを熟知していた。3か4、あるいは5番手あたりにいて命脈を保つのが、彼の処世術であった。

足利将軍家の一族で、戦国期を信長、秀吉の下で無事潜り抜け、家康、秀忠の時代に肥後熊本の城主となり、明治維新まで大名として命脈を保ったのは、唯一、細川家のみである。

幽斎の処世訓を歴世忠実に守ったことが、細川家の命脈をつなぐ結果になったのではないか。

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