正親町(おおぎまち)天皇のこと

頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、我が国の国土は朝廷と鎌倉幕府で二分され、鎌倉の勢力が徐々に凌駕する勢いにあった。

これに反発する後鳥羽上皇は、天下の宝刀「院宣」を発すれば全国の武士はこぞって京へ参集するものと考えた。そこで、意を決して鎌倉に挑戦状を突き付けたが、これがまったくの誤算であった。

 

武士とはいっても、その実は武装した農場経営者である。

耕して得た収入を一部献上せよという朝廷に対し、自分で開墾した土地はお前のものだと保障する鎌倉政権は、武士団の圧倒的支持を集めた。

 

こうして、世に名高い承久の乱は、鎌倉側の一方的勝利に終わった。

これ以後、権勢を誇った朝廷は権力の座から滑り落ち、600年にわたって武士の目を気にしながら過ごしていくことになる。

 

 正親町天皇の即位

さて、室町時代も中頃になると、将軍家の支配する領国は減る一方で、幕府の財政は心もとない。一方、朝廷の財政はさらに厳しく、応仁の乱でわずかに残された領地も管理不能となり、収入源はまことに乏しい。朝廷公家の生活がいかに切羽詰まっていたかは、想像に難くない。

こうして室町も後期の1557年、困窮のなかで正親町(おおぎまち)天皇は即位した。

すでに40歳というかなりの年齢である。ただ、帝位を継承したものの、即位の儀に必要な資金がなかった。このままでは誰も天皇とは認めてくれない。

こうして頭を抱えていたところ、たまたま戦国大名・毛利元就が献納を申し出、なんとか即位の礼を実施出来たのであった。

それだけでも、運のいい人といえる。

 

本願寺の門跡

つぎに正親町天皇に手を差し伸べたのは、本願寺である。むろん、目的があってのことである。

この時代、浄土真宗内部の勢力争いから、本願寺派の宗主・顕如は摂関家である九条家の猶子となる一方、朝廷に働きかけて門跡の地位を獲得しようと工作していた。

 

門跡(もんぜき)とは、もともと天皇が出家して寺主となる寺院を意味したが、次第に皇族・公家によって継承される最高の寺格を表すようになっていた。

1559年、正親町天皇は前例がないだけに、後ろめたさを感じつつもこれに応じ、門跡の勅許を出したのである。本願寺による献金攻勢の尋常でなかったことが分かる。

 

こうして本願寺門跡は公家の仲間入りを果たし、以後、本願寺の権勢は確固たるものになった。

その結果、本願寺では僧侶の貴族化が進み、地方の真宗末寺にいたるまで、僧侶は公家言葉を使うようになったという。

当時、庶民が本願寺門跡を貴人としてあがめたのは、こうした理由からである。

 

さらに信徒は、真宗の僧侶夫妻を「おもうさま」、「おたあさま」と呼ぶようになり、後継者を若様と呼んで敬った。

これに応え、彼らは人前で説教する際には、薄化粧するまでになったという。

 

当然、天台、真言宗など他の宗派は、嫌悪感を露わにしたが、これほどまでに真宗僧侶が貴種化したのは、一にも二にも本願寺門跡の獲得にその淵源があるといえる。

ともかく、正親町天皇は本願寺の支援を得て、当面の安息を得た。

 

信長の目論見

本願寺の次に正親町天皇に手を差し伸べたのは、織田信長である。

これより10年後の1568年、全国制覇を目論む信長は、正親町天皇を守衛奉るという大義名分をかかげて入京し、まず京の全域を制圧した。

おかげで、再度傾いていた朝廷の財政は急速に回復した。

 

信長の庇護をうける以上、天皇も何事かをおこない、信長に誠意を示さなければならない。

そこで彼は、信長と敵対勢力との和議の仲介や調停にいそしんだ。

実際、1570年の姉川の戦いや1573年の足利義昭追放に関し、勅命を発して和議を行い、

1580年の石山本願寺との戦いにも停戦に尽力した。

さらに1577年には、信長に官職の最高位である右大臣を宣下した。

信長の支援に応え、精一杯の誠意を示したものといえる。

ところが1582年6月、本能寺の変で信長が落命し、京の町には不安と動揺が広がった。

 

秀吉の目論見

ほどなくこのテロを鎮圧し、信長のあとを継いだのが豊臣秀吉である。

ここでも正親町天皇は、運よく秀吉の庇護を受けることになる。

もともと出自の卑しい秀吉は、みずからの権威を高めるため、天皇に御料地や黄金を献上し、朝廷を懐柔した。

こうして天皇を持ち上げ、豊臣政権の後ろ盾としたのである。

おかげで正親町天皇は、存命中もっとも不自由なき宮廷生活を送ることが出来たと言われる。

 

正親町天皇の僥倖

1586年、70が近づいた正親町天皇は、孫(のちの後陽成天皇)に譲位して隠退し、7年の後、崩御した。在位は30年に及んだ。

戦国期という史上もっとも不穏な世情を、宮中から傍観しているうち、つぎつぎに天皇を庇護する者があらわれ、従来の天皇とは比較にならない順風満帆な一生を送ることとなった。

まさに僥倖といえよう。

 

 

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