日本史ひとこま/nihonsi

敗戦後の残像

敗戦後の残像

敗戦後の残像

学校に上がるまでの記憶は茫洋として掴みどころがないが、小学1年生になってやっと切れ切れではあるが、思い出すことがある。昭和28年のころで、敗戦後の傷跡をまだ引きずっていた。したがって、あまりいい思い出はない。

当時は、家族みんなでラジオを聞きながら、ちゃぶ台の前に正座して食事するのが常で、子供心に脚がシビレて弱ったのを覚えている。戦後さらに米不足に拍車がかかり、食べられるだけましという状況だったから、麦や芋粥ばかり食べていたイメージがある。柱時計のボーンという間の抜けたような音が耳に残っている。

1年生の学級写真をみると、担任の女先生は着物に袴姿である。かなり歳がいっておられたが、子供たちには優しい柔和な人だった。自分を含め、継ぎあてした古着を着ている子が多い。なんと貧しい時代であったかと、しみじみとした気分になる。

確かに母親は足ふみミシンで、始終なにかを縫っていた。子供たちがつくった服やズボンの綻びを縫い合わせていたのだと思う。

毎週、自転車に紙芝居を乗せた老人がやってきた。町の辻で、飴を塗った煎餅を買って食べながら、紙芝居を楽しむのである。小児科医である父は不衛生だといって、自分に煎餅代を与えなかった。近所のひとが、「お宅のお子さんは紙芝居を見ないで、ほかの子が下にこぼした煎餅を拾って食べてますよ」というのを聞いて、母は慌てたという。その1件は記憶にないが、紙芝居が面白くて、心待ちしたのを覚えている。

ある日、見知らぬ親子が訪ねてきた。玄関に出た母がその親と話している間に、女の子が裏に回って盗みを働いた。ちょっとした事件だったので、記憶にある。学校に上がる前の小さい子に盗みをさせないとやっていけない、すさんだ時代だった。

近所に年下の女の子がいた。自分は三輪車に乗り、その子はまだ小さくて乗れないため、自分のあとを駆けながら、よく一緒に遊んだ。ある時から急にいなくなった。自分の後ろを走っているとき、馬車に轢かれて死んだというのを、何年も後になって親から聞いて、呆然とした思い出がある。

当時は自家用車などなく、道も舗装されておらず馬車が横行していたから、道路には馬糞が放置され汚かった。鬱陶しく侘しい思い出が多い。

明るい兆し・昭和30年

記憶がはっきりしてくるのは小学3年生ころからで、それが昭和30年にあたる。

いっしょに遊べる友達ができ、自転車で街を乗り回しはじめた。世界が急に明るくなった感じで、毎日が楽しかった。何を喋っていたかまでは記憶にない。

下駄をはいて登校している途中、それと気づき、運動靴に履き替えに戻ったことがある。学校は靴だったが、下校すると下駄を履いて過ごすことが多かった。当時、下駄はまだまだ靴に負けていなかったといえる。

道路はまだ舗装されていなかったが、近所の子たちと、道路に丸を書いてケンケンに興じたり、宝探しをしたり、ビー玉、駒回しなど、遊ぶものがなくて困ったという思い出はない。子供たちは子供たちで、先輩後輩のけじめをしっかり自覚しており、年上の先輩には頭を下げて一緒に遊んでもらった記憶がある。

駄菓子屋は近所に2軒あった。10円ほど小遣いを貰って行くのだが、少ししか買えないので、迷いに迷って決まらない。1軒のおやじにシビレを切らされ、いい加減にしろと怒鳴られた。それ以来、そこには行かなくなった。

夏はクーラーがないので、蚊帳を吊って夜を過ごした。寝相が悪いうえ、寝小便をするので、夜中に起こされトイレに行かされると、蚊帳の隙間から蚊の侵入を許し、何度もひどい目にあった。いったん侵入すると出ていかないので、夜通し刺されるのである。蚊帳にいい思い出はない。

時折、通学路の街角に物乞いをする傷痍軍人がいて、我々小学生とは目を合わさなかった。戦争の過酷を知らない自分たちは、腕や脚を失った白装束姿で、アコーディオンを弾きつつ軍歌を歌う異様さに、近寄りがたい恐怖を覚えた。

彼らの多くは普通の仕事にはつけず、国立療養所などで過ごしたというのを後年知った。社会保障が貧弱で、通行人に物乞いせざるをえない事情を、誰も教えてくれなかったので、子供たちは不安に陥ったのだと思う。

また時々、時代劇に出るような虚無僧の姿をみかけることがあった。深編笠をかぶり、僧でも俗人でもないというので、正体不明の人という思いで眺めていた。ひそかに戸口を訪れては尺八を吹き、無言で喜捨を乞うのだが、タイムスリップしたような姿が印象的であった。食糧難の時代を反映する残像として、忘れることが出来ない。

夏と冬の休みになると、家族全員で父の故郷へ出かけた。鈍行で3時間以上蒸気機関車に揺られると、車酔いして辛かった。とくに夏、車内の蒸し暑さに窓を開けると、煤が目に入って弱ったのを覚えている。蒸気機関車をみるのはいいが、乗るものではないと、子供心に思ったものだ。

脚のシビレとの戦い

近所にお寺があり、そこの和尚さんに習字を習いに出かけた。無論親の指図である。困ったのは、書いている間、正座しなければならないことで、習字より脚のシビレを克服するのに精力を費やした。平然と正座する和尚が神か仏のように見えた。

あまり遊んでばかりいるので、塾へ行くよう仕向けられた。姉に連れられて仕方なく出かけていくのだが、そこでもやはり正座せねばならず、脚のシビレとの戦いであった。ほかの子の心配などしている余裕はないが、約2時間、皆どのように乗り切ったのだろうか。不思議でしょうがない。

隣の部屋から、かすかにラジオの相撲中継が聞こえてくる。勉強はそっちのけで、聞き入ったのを覚えているので、興味がまさると、シビレは忘れていたのかもしれない。

テレビの世の中となる

このころテレビが登場し、ラジオしか知らない自分たちは、近所にテレビを買ったうちがあると聞くと、友達とそっと覗きに行った。おぼろげに人が映っているような画面をみて、がっかりしたのを覚えている。

しかし年々画像は改良され、昭和34年、「世紀のご成婚」と世間を賑わせた天皇家の慶事に、テレビは生産が間に合わないほど売れに売れ、1500万人が結婚パレードに見入ったという。小学校を卒業したころで、自分の家にもテレビが入り、白黒だがパレードはかなり鮮明に見えた記憶がある。

それ以来、茶の間の中心はラジオからテレビに代わっていった。と同時にダイニングテーブルが一挙に各家庭に入り込み、ちゃぶ台で食事することがなくなり、食事も団らんも椅子に坐ってすることとなった。おかげで、長年苦しんだ脚のシビレから解放されることになった。

title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title
title
sub-title