日本人の起源/ORIGIN

遺跡からみた日本人

遺跡からみた日本人

遺跡からみた日本人

遺跡
現在、日本列島にひとが住み始めたのは約3~4万年前だろうといわれています。

しかしながら長い間、我が国では縄文時代より前(旧石器時代)に人類はいなかったと信じられていました。

ところが、1949年(昭和24年)、群馬県岩宿で1~2万年前の関東ローム層から旧石器が発見されたのです。

関東ローム層は火山が噴火したあと火山灰の積もった赤土(鉄サビの色)の層です。

これだけ大噴火が頻発するのだから人の住めるわけがないという固定観念を覆す画期的な大発見でした。

しかもそれが専門家でなく一愛好家による発見とあって世間は大騒ぎとなりました。

これを機に全国でローム層の見直しがおこなわれた結果、4,000もの旧石器遺跡がみつかったのです。

白滝遺跡群

その代表格が北海道の大雪山系東北山麓にある白滝遺跡群です。

天然ガラスとも呼ばれる美しい黒曜石の日本最大の原産地といわれ、ここでつくられた黒曜石製石器は遠く離れた函館ばかりか400㌔も離れたサハリンのソコル遺跡でもみつかっています。

この時代、すでに黒曜石の採取から石器の製作、搬出にいたる流通ネットワークができていたとおもわせる驚くべき事実です。

嘘のような本当のはなしで、旧石器時代人のしたたかさをみるおもいがします。

12,000年前からは土器を使用する縄文時代に入ります。

縄文時代の遺跡は圧倒的に東日本に集中しており、西日本は九州にわずかにみられるのみです。

とくに紀元前3,500年から紀元前2,000年の縄文中期には、地球温暖化のため北海道は今の東京並みの住みやすさとなり、人口も26万と縄文期最大となって、三内丸山遺跡(青森)のように巨大な集落が誕生しました。

桃源郷~地球冷却

三内丸山では1,500年間にわたり100世帯500人ほどが居住していたとみられ、栗の栽培など安定した食糧供給がなされ、闘争のあともみられないことから余程住み心地が良い桃源郷であったとおもわれます。

したがって生活必需品ばかりでなく装飾品や食生活に直接関係のない木製漆器なども沢山つくられています。

たとえば新潟の糸魚川から運ばれたヒスイや、北海道十勝や白滝、秋田の男鹿、山形の月山、新潟の佐渡、長野の霧ケ峰などからの黒曜石、岩手県久慈の琥珀などが運ばれ加工されていたことがわかりました。

また赤漆塗りの木皿や赤色顔料などから漆製品が製作されていたことが判明しており、漆の精製に長けた専門的な技術者のいたことがわかります。

当時の貝塚(ゴミ捨て場)をみると、木の実やどんぐり・クルミ・栗・ワラビ・ゼンマイ・きのこなどの植物のほか、マグロ・サケ・カツオ・サバ・タイ・イワシなどの魚や貝類が数百種類もみつかっており、なかにはイルカやサメ・クジラの骨まで見られています。

同時に狩猟用の弓や丸木船・櫂までみつかっており、大型魚に対しては恐らく数隻の船で威嚇しながら岸に追いこんで捕獲していたものと考えられます。

しかし縄文晩期には地球冷却現象のため、かなりの人が寒冷に耐えられず死亡したとおもわれます。

生き延びた人々も暖かい南を目指すようになり、東日本から西日本への大移動があったようです。

そしてついに人口は7万人まで落ち込んで、弥生時代と交代することになります。

弥生時代

弥生時代は、紀元前10世紀中頃から水稲耕作による稲作技術をもつ集団が大陸から北九州に移住することによって始まりました。

その後、弥生文化が大阪平野に到達するのにおよそ400年、関東平野まで達するのに900年もかかっています。

ということは、弥生人は縄文人を力で征服していったのではなく、融和による共存の道を選んだものと思われます。

弥生時代の集落は、水田をつくるのに適した低湿地をのぞむ場所が選ばれ、10軒程度の竪穴住居に倉庫を置いて離れには墓地というのが一般的です。

ところが米の生産量が増大し人口が増えてくると、土地の権益をめぐる争いが目立ってきました。

そこでいくつかの集落(ムラ)が集まり、周りに壕を造って敵の侵入を防ぐようになりました。

当時の地域社会(クニ)はこうして作られていったようです。

とくに北九州や近畿ではこうした大規模集落が作られましたが、なかでも佐賀の吉野ヶ里遺跡は環壕内に1,200人、周辺を含むクニ全体に5,400人もの人々が居住していたといわれる弥生時代を代表する大集落です。

集落を環壕で囲まれた各エリアは居住・倉庫・養蚕・酒造・工房・祭祀などに分かれ、なかでは市も開かれていたようです。

支配者層は鉄器をもった戦闘指導者で、一般人の住居とは区別されていました。

食物は小麦・アワ・キビ・豆・瓜・ドングリ・クルミなどのほか、 イノシシ・鶏・シカ・クマ・タヌキ・イヌなどの動物、 フナ・コイ・サメ・スズキ・アジ・オオタニシ・ヤマトシジミなどの魚介類と多岐にわたっていました。

これだけ豊富な食糧に恵まれたとはいえ、衛生事情は決して良好とはいえず、無事に出産、乳幼児期をくぐりぬけるのは容易なことでなかったとおもわれます。

2,000を超す吉野ヶ里の甕棺(死体を入れる棺)の4割が子供用であったというも、そのことを物語っているとおもわれます。

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