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日本史ひとこま

カッテンディーケの見た日本

日本人について

幕末

カッテンディーケの見た日本

嘉永6(1853)年、ペリーの開国要求に驚愕した幕府は、あわてて交易国オランダに相談をもちかけた。これに対しオランダは、老中阿部正弘に、日本の地理的条件からして海軍をもつことが第一であり、洋式海軍の創設には尽力を惜しまないと返答した。 長崎...
日本人の宗教心

神をとるか仏をとるか

もともと我が国の神は自然崇拝から発したもので、八百万の神々が山川草木至る所、家のなかにもおられるという。 古代人は神のおはしますところを掃き清めて祈りを捧げ、感謝や心の救済を願っていたとおもわれる。 ところが7世紀にいたり、アマテラスを押し...
興味深い日本人

信長の視点

信長の魅力は、周りに惑わされず、何事も自分で決するという小気味よさにある。 信玄や謙信が孫子の兵法を学ぶのを横目で見ながら、他人のやったことを見ても何の役にも立たぬ。目の前の問題に答えが用意されているわけではない。答えは俺が示してやるといわ...
幕末

長州 暴発す

明治維新に先立つこと5年、文久3年(1863年)の長州は大変である。 前年には英国公使館に火をつけて大騒ぎをおこしたが、この年の5月には長州沖にいる外国船を突然砲撃し、こともあろうに長州一国で欧米4か国(米英仏蘭)を敵にまわした。 力でもっ...
江戸時代

杵築(きつき)藩家老・大原氏

別府から国東半島へむかって北へ30キロ走ったところに、杵築市はある。 鎌倉時代、豊後の領主・大友氏の一族が八坂郷木付荘を統治し、地名の木付(きつき)をとって姓とし、築城した。それが木付城の始まりである。 木付城の城主はその後、何度も入れ替わ...
日本人気質

職人気質(かたぎ)

身を労すること 士農工商は紀元前から中国にあったが、江戸幕府が身分制を固定するのに好都合と考え、採用した。ただし本来、士は心を労する士大夫のはずだったが、徳川氏はこれを武士に置き換えた。 儒教では士大夫は理想的な階級で、民衆のために心を砕く...
興味深い日本人

井伊の赤備え

家康、武田旧臣を召し抱える 武田の猛将、山県昌景が赤備えで天下に名をはせたが、武田家滅亡のあと、家康は武田家旧臣を多数召し抱えた。 かつて家康自身、三方ヶ原で完膚なきまでに打ちのめされた思い出がある。その象徴ともいうべき赤備え軍団を手中にし...
江戸時代

井伊の赤備え

井伊直政と赤備え軍団 武田の猛将、山県昌景が赤備えで天下に名をはせたが、武田家滅亡のあと、家康は武田家旧臣を多数召し抱えた。かつて家康自身、三方ヶ原で完膚なきまでに打ちのめされた思い出がある。その象徴ともいうべき赤備え軍団を手中にしたかった...
興味深い日本人

異色の上皇 ”後白河上皇と後鳥羽上皇”

治天の君 現役の天皇が次の天皇を意中のひとに継がせるため、早めに天皇を辞して上皇となり、若き天皇が育つまで後ろから操る傀儡政権の仕組みを、院政と呼ぶ。 院とは上皇のこと。したがって院政をしいて権力を振るう上皇は「治天の君」と呼ばれた。最高権...
興味深い日本人

”鯨海酔侯” 山内容堂

土佐勤王党から実権を奪取 文久2年、江戸に幽居する山内容堂は片腕と頼む吉田東洋が暗殺され、土佐勤王党のへの憎悪を募らせていた。 もともと彼は、幕府のおかげで奇跡的な幸運を得て藩主となった経緯がある。幕府には人一倍恩義を感じていた。 したがっ...
興味深い日本人

西行の旅

愁眉の急 ”大仏殿復元” 69歳の西行に勧進のため奥州へ旅立ってくれと言ったのは、東大寺造営責任者の重源である。時は平安末期の1186年である。 そのころ西行は伊勢にいて、地元の神官たちに和歌の指導をしている隠者であり、当時69といえば、ほ...
興味深い日本人

明恵の夢分析

8歳で孤児となる 頼朝が平氏打倒を掲げて伊豆で挙兵した時、8歳の少年・明恵の周りにも激変が起こった。母が病死したのに次いで、平氏の武士であった父・平重国も源氏との戦で戦死し、一朝にして天下の孤児となったのである。 鴨長明によれば、この年は大...
興味深い日本人

三島由紀夫の唯識

割腹自殺 大学4年(昭和45年)の秋、昼食をとっていると臨時ニュースが流れ、「三島由紀夫の暴挙」が報じられた。彼が楯の会の4名と陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、隙を突いて益田総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊員へクーデター...
興味深い日本人

細川ガラシャと息子たち

今では細川ガラシャが通り名となっているが、それは明治維新、わが国でキリスト教が公認されて以来である。 江戸の終わりまでは細川たま(珠、玉)と呼ばれており、母は明智光秀の後添いであった。 父・明智光秀の苦労 父光秀は美濃の斎藤道三に仕えていた...
江戸時代

加藤清正・忠広父子の悲運

加藤清正 家康にとってみれば、今後徳川家を脅かすのは、秀吉子飼いの武将たちであろう。 自分の存命中に、これらの武将を目立たぬように、ひとつひとつ潰しておかねばならない。 加藤清正もそのひとりであった。 関ケ原の戦いのあと清正を肥後一国の国主...
医学史ひとこま

長崎市民の誇り 永井隆

長崎名誉市民第1号となったのが故永井隆博士である。 長崎原爆投下の混乱のなかで、白血病の身で自ら頭部に大けがをしながら、被災者の看病にあたった。キリスト者として、身を捨てて隣人愛を実践した稀有の人である。 クリスチャンとなる 永井隆は島根県...
戦国時代

細川幽斎・忠興父子の身の処し方

細川藤孝(幽斎)のように才気ばしった男は、まわりがよく見えるだけに、人より先に行動してしまうため、かえって墓穴を掘ることが少なくない。 毎日が命がけの激動期には、このような人物が長命を保つことは稀である。 藤孝は足利義昭を皮切りに、信長、秀...
日本人気質

かぶきもの(傾奇者、歌舞伎者)

傾奇者(かぶきもの)の登場 傾く(かぶく)とは、正道から外れている状態をいい、傾く(かぶく)者とは、まともな恰好をしていない者、道を外れた者の意で、世間ではかぶきもの(傾奇者、歌舞伎者)と呼んで、胡散臭い連中という目でみている。 いつの世も...
日本人気質

自粛の文化

忌中の自粛 昨年、身内に不幸があったが、90を過ぎた大往生のため、親戚一同、ひとりとして嘆くものがない。 ところが、忌中の間は、家の中にこもって故人のために祈り、死の穢れが他の人に移らないよう、人に会うのを控えよという。さらに宴席はもちろん...
戦国時代

太閤はんの大阪城

その昔、大阪の地は海のなかにあった。そのなかで南北に丘陵をなす上町台地だけが、半島のごとく海に突き出ていた。台地が盛り上がったのは、豊中から岸和田に至る断層の動きによる。 上町台地の東側にある河内湾と西側の大阪湾には、長い年月を経て、淀川・...
室町時代

足利義政とその妻

応仁の乱 台風のあとに流木が積み重なって川をせき止め、水が溢れ出す光景をみることがある。しかし、死体が積み重なって川をせき止めたとなると、尋常なことではない。 かつてわが国最大の内乱が京都であった。20万もの兵が11年にわたって刃を交え、京...
古代

渡来人のこと

北朝鮮と日米韓の軋轢が高まる中、ひとたび戦火を交える事態ともなれば、朝鮮半島からの難民が大挙わが国を目指す可能性が現実味を帯びてきた。 じつは過去にも似たような事態があって、一度目は紀元前300年ころ、戦国時代の戦火を逃れ、中国東北部にいた...
古代

弥勒菩薩半跏思惟像

広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が国宝第1号に認定されたというだけで、当時からこの像がいかに魅力的な存在であったかが分かる。 仏像にしては珍しく、座位で右足先を左大腿に乗せ、右膝頭に右肘をついて物思いにふける半跏思惟像である。どちらかというと、人...
興味深い日本人

タフネゴシエーター・大隈重信

佐賀藩の徹底教育 幕末、幕府の呑気さを後目に、諸藩の勉学熱は尋常でなかった。とくに薩摩、長州、佐賀、越前、宇和島の各藩は熱心であり、なかでも佐賀藩の意気込みは突出していた。 藩士の子弟は7歳になれば藩校弘道館に入学する。16になると高等教育...
明治

大久保利通の東京遷都

慶応3年、徳川慶喜は大政奉還という奇手をうって、薩長の出鼻をくじいた。 倒幕の密勅を得て意気盛んな大久保、西郷は、猫だましを食らったように腰が砕け、武力行使ができなくなった。 欧米列強がわが国を虎視眈々と狙っている今、大久保は焦燥の念に駆ら...
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