日本人の宗教心/RELIGIOUS-SPIRIT

酩酊にもいろいろ

酩酊にもいろいろ

酩酊にもいろいろ

 

酩酊は必ずしもアルコールによるとはいえない。

われわれは思想にも酔う。それはしばしば信仰という形をとる。

ところで、終日ぬるま湯につかった生活をしていると、頭も冬眠するがごとくなる。物思う必要に迫られないからで、それはそれで幸運といえるかもしれない。

逆に、もはやこれまでと観念してはじめて、なにものかが捻り出される。

ひとを酔わせるほどの思想はその辺から生まれるようだ。

源氏により貴族政権が倒れた後、元和偃武までの400年間、庶民の多くは一日を無事終えるのに懸命である。にもかかわらず、抗争に巻き込まれて落命するものもあり、もはや頼れるものは神仏への信仰だけであった。

しかし彼等の多くは字が読めず、真言や天台の教理を学ぶには無理がある。

そのうえ、不穏な世相から末法思想が広がり、この世も終わりかという恐怖に苛まれていた。

信仰に酩酊するということ

法然や親鸞が現れたのは丁度そのころで、「念仏を唱えるだけ(専修念仏)で阿弥陀様が救ってくれる」と説いて、彼等に救いの手を差し伸べたのである。

ただの方便で仏道を説いたなら、詭弁としかいいようがない。詐欺師である。

しかし、法然も親鸞も長年、総合大学というべき延暦寺で修業するうち、一体この学問で人々を救えるかという命題に悩みぬいた挙句、一縷の望みを抱いて山を下りた。大乗仏教はなんといっても救済がメインテーマである。

法然は延暦寺第一の秀才とうたわれた人物である。学識もさることながら、温厚な人柄も傑出していた。若き親鸞の激情を受け止めるだけの度量があった。

多くの僧からは、念仏などで救われるはずがないと冷笑される一方で、手を合わせるだけで救われるという浄土信仰は、驚くべき早さで全国に広がった。

民衆に対する法然、親鸞の誠実な説法がそれに寄与したところは大きい。

歎異抄には、絶対他力を説く親鸞の決意が赤裸々に表出されており、弟子唯円の質問に対する真摯な応答は実に感動的である。

信仰は言わば思い込みであるから、説法するものの人柄が決定的となる。

その後北陸では、浄土真宗を信奉する一向宗徒が加賀の守護・富樫氏を追い出し、本願寺が加賀一国を支配するという事態が100年もつづいた。さらに石山本願寺によって、10年にわたり信長の軍勢を押し返した。

農民の集団が最強の武装軍団をはね返すなど、ありえない話しだが、信仰に酩酊した集団は恐るべき力を発揮したのである。

酩酊の形態

ところで、思想に酔うといえば、神仏信仰だけにとどまらない。

たとえば、野球やサッカーの試合では、監督に心酔する選手たちが指示に従い、自在に動き回るのを見ることがある。そこには、ほとんど信仰に近い繋がりがみられる。

また、私事ながら医師になった当初、大学の医局に入り指導をうけた。数十人の医師をたばねる教授の深い学識に多くの医師が心酔し、師に言われるがまま仕事に明け暮れた。後日、研究室を離れて始めて、いい意味で自分は酩酊していたことに気付いた。

また、かつてオウム真理教の教団にいたものが、事件後そこを離れて初めて、自分のとった行動に愕然としたと述懐していた。教団にいる間はすっかり洗脳され、何の疑問もおきなかったという。

なにか変だと思っても、しばらく続くとそれが正常となり、次第に酩酊してしまったということだろう。

酩酊は諸刃の剣

酩酊はしばしば毒気を含む。酔い方によっては目を見張るほどの成果をあげるだろうが、まかり間違うと、アウシュヴィッツの大惨事をも引き起こすものだ。

残念だが、ひとは懲りない性(さが)から容易に抜け出せない。

今後も新たな思想が生まれ、それに酩酊するひとたちによって、良きにつけ悪しきにつけ、社会は変容を遂げるだろう。

そのとき、醒めた目で社会を見つめる人たちがいなければ、日本は危うい。

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