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ベルリン紀行

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ベルリン紀行

jiriposival0 / Pixabay


ベルリンで知り合ったI氏は、在独30年の日本人である。

長らく西ドイツのミュンヘンに住み、牧歌的風土がとても気に入っていると話してくれた。

彼によると、北海に近く、荒々しい気風のハンブルグとは犬猿の仲で、ライバル意識も尋常でない。が、首都ベルリンだけは別格らしい。

戦後、ベルリン市はソ連の占領地東ドイツにあったが、米英仏もここだけは特別区として管理権を要求し、西半分を得た。このため西ベルリンは、まわりを東ドイツに取り囲まれた陸の孤島となった。

ところが最初は規制が緩く、ベルリンの東西は自由に往来できたため、東側から西側への脱出が続出した。

この事態に危機感を覚えた東ドイツ政府は、1961年の夏、いきなりベルリンの境界線に45キロの壁を造り、東西を遮断した。

たまたま東から西側へ、西から東側へ出かけていた人は、たまったものでない。この日を境に30年間自宅へ戻れなくなったのである。多くの哀話が生まれた。

東ドイツに君臨したホーネッカーの大罪は、人間不信を国民に植え付けたことだろう。

彼は国民を信用せず、20年にわたって電話の通話内容を盗聴したばかりか、隣人をスパイに仕立て、西に逃亡しそうだと告げ口すれば褒美を与え、国家ぐるみで聞き耳を立てていたのである。

1989年(平成元年)の夏以来、ハンガリーやチェコで鉄のカーテンに綻びが出始め、自由を束縛されつづけた東ドイツの住民が西ドイツへ流出し始めた。それが余りに大きな流れとなったため、10月に入ると東ドイツ政府は慌ただしくチェコスロバキアとの国境を封鎖した。

出口を塞がれた住民は欝憤を貯めながらも暴走を慎み、ライプツィヒを拠点に非暴力デモを拡大させていった。

いわゆる「月曜デモ」で、「Wir sind das Volk」(我々は人民だ)とシュプレヒコールしながら整然と進む数万人の群衆に、多くの人が感動を覚えた。現代の世に「我々は人民だ」などと訴えなければならない人々の悲しさに共感したのである。

今、ドイツ再統一後「英雄都市」となったライプツィヒのニコライ教会前にいる。

1989年の10月9日、ここから7万もの群衆が歩き始めたのだ。

ただちにホーネッカーは弾圧を指示したが、群衆の圧力に軍も手が出せなかったという。わずか9日の後、ホーネッカーは失脚した。

東ドイツでは厳重な報道規制がかかっていたが、西側のミュンヘンでは東の情報は筒抜けだったという。

テレビは連日、いよいよ雪解けかとニュースを流し、ドイツ国民の間にもそわそわした気分が漂い始めた。

I氏もそろそろかと思いつつ、11月の始め休暇で隣のデンマークへ出かけた。

11月9日、コペンハーゲンのサウナでくつろいでいると、突然あちこちから「ウオー」という歓声が上がった。東西ベルリンの壁崩壊のニュースだったという。

1989年は平成元年という区切りの年で、我々日本人にも記憶に留められているが、とりわけドイツ人には終生忘れられない年となったに違いない。

ただ、壁崩壊がもたらしたものは、明るいニュースばかりではないとI氏が口ごもった。30年の年月は人の心も変えてしまったようですという。

社会主義の世界では、いくら懸命に働いても、報酬が変わらないのだから、手抜きできるところは徹底して省こうとする。相手を喜ばせようというサービス精神はまるでない。

労働意欲は下がる一方だ。そのくせが未だに治らないという。したがって東西統合以来25年経つというのに作業効率が悪過ぎて、東ベルリンの修復工事は驚くほど、進まないのだそうだ。

西側の住民にとっては、統合以来貧しい東側の人たちを経済支援してやったという気分がある。

それにもかかわらず労働意欲が低迷したままというのでは、許しがたいというわけだ。自然と東側住民を見下しがちになるらしい。

一方東ドイツ住民にも、不満はある。今みたいに就職難の時世よりも、統合前の方がずっと良かった。

あの頃は就職難や失業という不安がなく、賃金は低めでも生活は安定していた。

無理に愛想を言う必要もなかった。社会主義は悪くないというわけだ。

壁崩壊が必ずしもドイツ国民をハッピーにさせたわけでないという説明には、説得力があった。

ドイツに何度も行ったわけではないが、確かに、商店街で若い店員に商品の説明を求めると、無表情で値段だけ言って向こうへ行ってしまわれた経験がある。

空港で道に迷って警備員に尋ねたときも、無言で指を指して踵を返してしまった。なるほどこの人たちは東ドイツ出身であったかと、納得した次第である。

I氏に、日本ではEUにおけるメルケル首相の評価はかなり高いねというと、大いに頷いた。

彼女にとっては不利な東ドイツの出身ですが、多くの政敵を凌駕して現在の地位を築いたのです。

物理学者でもある彼女はもともと原発推進派でしたが、福島原発事故のあとただちに方針を翻し、わずか3日後に原発計画の凍結を、2ヶ月後には中止を宣言しました。

原発の是非は物理学の問題ではなく倫理の問題であると言い切ったのです。まさに正鵠を射ています。

またユーロ危機に対しては、ギリシャから敵視されながらも、緊縮策を強力に要求してひるまない。

ドイツを守るという強い姿勢は、圧倒的な国民の支持をうけ、今回も3選を果たしました。

今や、サッチャーを上回る「鉄の女」といわれています、といって胸を張った。すっかりドイツ人になりきっているなと感じ入った。

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