世界史ひとこま/SEKAISI

ガンダーラの栄華は夢のごとく

ガンダーラの栄華は夢のごとく

ガンダーラの栄華は夢のごとく


昔、学校の授業で、インドの北にガンダーラという処があり、仏像はその地で初めて造られたのだと教わった。それまで、仏像はこの世に存在しなかったのだという。

ところで、インドではお釈迦さんが死に臨み、自らの彫像を掲げることを禁じた。他人に頼らず、自らを拠りどころとし、法を拠りどころとして生きよ(自燈明、法燈明)と言ったのである。

ともかく500年ほどはそれが守られたというが、祈りを捧げるのに偶像がないとどうもしっくりこないので仏像を造り始めたというのは、自然のなりゆきであったろう。

それもインドではなく、すこし離れたガンダーラという西域の地で造られた。

仏像を造ったのは、そういう事情に疎いガンダーラ在住のギリシャ系住民で、彼らは具体的な情報のないまま、祖国の神々をイメージし、ギリシャ彫刻を模した仏像を制作した。

ヒット曲 ガンダーラ

大学の研究室で成果の上がらぬ日々に鬱々としていたころ、ガンダーラという曲がよく流れた。

古代西域のガンダーラ美術が展開する世界に理想郷を重ね合わせ、東洋の神秘への憧れをうたったのだそうだ。したがって史実に即して作ったものではないという。

当時は昭和50年代前半で、成田空港で民有地取得に反対する住民と新左翼が機動隊と死闘を繰り広げ、その結果、国には逆らえないという虚無感が世間に漂っていた時期だった。

そういう世相を反映してか、この短調のしらべが、当時の若者に受け容れられたように思う。

何気なく「ガンダーラガンダーラ」というフレーズが口をついて出てくるほど、馴染みやすい曲だった。

交通の要衝 ガンダーラ

じつはガンダーラの実像は、歌にあるほど理想郷ではない。

といっても、僻地というわけではなく、インドの北方、現在のパキスタンの西北からアフガニスタンにかかる、東西交易の十字路といわれた交通の要衝にあたる。

紀元前4世紀にアレキサンダーの東方遠征以後、現在のイラン、イラクからアフガニスタン、パキスタンにいたる地域はギリシャ人支配者による統治(セレウコス朝)が行われた。

紀元前3世紀、その一部が独立してバクトリア王国となり、約100年間ガンダーラを中心に栄えた。したがって、もとはイラン系民族の居住地だったところに、多数のギリシア人が入植したといういきさつがある。

このため、オリエント文化とギリシャ文化の混和されたヘレニズム文化なるものが生まれた。ただし、この時期、仏像なるものは登場していない。

そのバクトリアが滅んだ後は、100年以上を経て、イラン系のクシャーナ族がガンダーラの地に侵入し、クシャーナ朝を開いた(紀元後1世紀)。彼らはローマ帝国とも交易し、ヘレニズム文化だけでなくギリシア、イラン、ローマという三つの文化を積極的に採り入れた結果、ガンダーラは東西貿易の交通路として益々繁栄した。

さらに幸運なことに、クシャーナ朝はヒンズー教、仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教などいかなる宗教にも寛容であった。とくに2世紀半ばには、カニシカ王が都をペシャワールに定め、仏教を保護した。このため、ペシャワール(当時はインド)からジャラーラーバード(アフガニスタン)に至るガンダーラの地に、ガンダーラ仏教が広く浸透した。

したがって仏像を造ろうとするのに横やりが入ることはなかった。祈りの対象がないのなら造ればいいじゃないかという程度であったろう。

かつてお釈迦さんが偶像を禁止したことなど、気にした風はない。

ガンダーラ美術の盛衰

当初、ガンダーラ仏はギリシア彫刻を模して制作された。最初のうちはかなり素人っぽさが目立ったが、次第に目鼻顔立ちがシャープで、写実的となった。

こうして、信仰の対象が美しく目に見える形で示されたため、仏教は一挙に衆目を集めることになり、ガンダーラから中央アジア、中国へと急速に広がっていった。

さらに、ガンダーラは東西交易の1大拠点にとどまらず、シルクロードからインドに通じる交通路の要衝にもなった。それに伴い、仏像を安置する寺院もつぎつぎに建立され、多数の僧侶がガンダーラに参集した。

理想郷と歌われたガンダーラの栄華は、2世紀、このカニシカ王の治世にこそ、最もよく見ることが出来る。

しかし3世紀の半ば、ササン朝ペルシャによりクシャーナ朝が没落してからは、ガンダーラ仏教も同じく衰退の道をたどり、1000を超える仏教寺院を擁したガンダーラの栄華は、ことごとく灰燼に帰してしまったという。

我が国では、卑弥呼が鬼道を用いて国内を統一した時期にあたる。

インド・グプタ美術の興隆

また4世紀のインドにおいても、クシャーナ朝に代わりヒンドゥー教を信奉するアーリア系のグプタ朝が登場した。

このため、ギリシア系のガンダーラ美術は一掃され、純インド風の繊細なグプタ様式が興隆した。

グプタ仏の特徴は、ガンダーラ仏の瞑想的、伏目勝ちな顔立ちに対し、目を見開き肉感的で、表現は繊細である。

その作風は、アフガニスタンのバーミヤンや中国、北魏の雲崗に伝わり、のちに我が国にも伝えられた。ちなみに法隆寺金堂の壁画は、このグプタ様式を引き継いでいるといわれる。

バーミヤンの仏教美術

ところで、ガンダーラの地はパキスタン(当時はインド)のペシャワールを中心とし、国境を挟んで一部はアフガニスタン側に広がっている。

そのアフガニスタンは、国土の半分以上が、南北に延びるヒンドゥークシュ山脈(海抜2000~7000メートル)沿いの山岳地帯である。さらに西南部は砂漠地帯が広がり、耕地はわずか12%という恵まれぬ条件下にある。

しかし紀元前3世紀、この地にギリシャ系のバクトリア王国が興り、北西部のヒンドゥークシュ山脈山中の渓谷(標高2500m)に、1000を超す石窟仏教寺院がつくられた。

信じがたいことだが、衣食住のままならぬこの山中に、当時、数千人の僧が居住していたという。

これが古代都市、バーミヤンである。

バーミヤン石窟内には、数世紀にわたり、バクトリア独特のギリシャ風様式だけでなく、ガンダーラ、グプタ朝、ササン朝の影響を受けた壁画が、所狭しと描かれた。

時代が下がって、6世紀には、高さ40mに及ぶ巨大な2体の摩崖仏をはじめ、大型の仏像が彫られるようになった。

19世紀に入り、初めてアフガニスタンの秘境にも外国から探索が及ぶようになり、世界はバーミヤンの摩崖仏を見て仰天した。

しかも1300年もの昔に、想像を絶する巨大仏が造られたのを知って、当時の人々の多くが言葉を失ったといわれる。

察するに、山の斜面に巨大仏をデザインし、それを主導した天才がこの地にいたのであろう。おそらく多くの犠牲のうえに、数十年あるいはそれ以上をかけ、とにかく造り上げたのである。

バーミヤン摩崖仏の破壊

ところがさらに時を経て、イスラム勢力がこの地にも及ぶようになると、偶像崇拝を否定する彼らの迫害により仏教美術は破壊の憂き目にあい、僧侶たちは命を脅かされて、次第にこの地を去っていった。

とくに1973年、王政が崩壊してからは内戦、紛争が頻発し、水道や電気などライフラインが破壊されたため、隣国へ逃れる難民の絶えない状況が続いている。

さらに2001年には、米英軍の介入でアフガニスタン戦争が勃発し、米国主導の民主政権ができたものの、イスラム法による統治を求めるタリバンとの対立は解消せず、いまだに終息の気配はない。

こうしたなか、タリバンによってバーミヤンが占領され、偶像崇拝禁止を掲げる彼らによって磨崖仏が破壊され、石窟の仏教画もその8割が壊滅的ダメージを被った。

我が国を始め国際社会はこの暴挙に激しく反応し、タリバンを厳しく糾弾した。

しかし、当のアフガニスタン政府は現在、国民の4分の1が飢餓状態となっていることに危機感を募らせており、仄聞するところによれば、国際社会が大仏の破壊に大騒ぎする一方で、続出する餓死者の救済には無関心であるのを嘆いているという。

危うい世界の食糧事情

しかし、これはアフガニスタンに限ったことではない。

76億と言われる世界人口のうち飢餓人口はじつに8億人を超え、9人の1人が飢餓に苦しんでいるといわれる。

アフガニスタンのように紛争や干ばつ、飢饉で食物が手に入らないだけでなく、食物を買う金もないという人々が増えている。

また開発途上国では、農作物の保管場所や加工技術、輸送手段がないため、せっかく収穫しても無駄にしてしまうケースが後を絶たない。

一方先進諸国では、生産される食糧の3分の1が「食べ残し」や「賞味期限切れ」などで廃棄されているという驚くべき現実がある。

我が国は幸い、飢餓の苦しみからは解放されている。しかし過去には飢饉で大量の餓死者を出したことも幾度となく経験している。決して対岸の火事と決め込んではなるまい。

したがって、我が国が食料のほとんどを外国に頼らざるを得ない現況は、国として根幹に関わる大問題に違いないだろう。

飢餓問題で国際協力すべきであることは論を待たないが、同時に自国の危険な食料実情に、われわれはもっと思いを致すべきではないだろうか。

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