四季雑感/SIKI

冬のソナタ

冬のソナタ

冬のソナタ

PIRO4D / Pixabay


四国の田舎にいても、”冬のソナタ”はあちこちから聞こえてくるから、もはやこの曲を知らぬ日本人はいないという有様だ。

主旋律は子供でも楽に弾ける単調なしらべだが、なんといっても大ヒットの理由はドラマそのものにある。

むかし大当たりした”君の名は”に似て、どうにもならぬやるせなさを、ぐずぐず言っているだけのドラマのようにみえるのだが、中年どころか定年を過ぎた女性にいたるまで、ヨン様といっているから大変である。

そのそばで男どもは寡黙を通しているが、無論、いい歳をして韓国女優に血道を上げれば、色きちがいと侮蔑されるのを知ってのことである。

ここに男女の決定的な差がある。

朝鮮半島と日本に住む人々が祖先を同じくすることぐらい、顔をみれば一目瞭然で、よく見ればどこか違うなどという屁理屈は、欧米人からみれば困惑以外の何物でもない。

その両民族がともに冬ソナをみて涙する光景は、共通の感動遺伝子を持っていると理解し得て、まことに同慶のいたりである。

それならこの際、北朝鮮へも裏からそっとビデオを流して、雪解けを狙うのは悪くない戦略といえる。

そこへいくと、テンポが速くめりはりのあるアメリカ映画に慣れた欧米社会では、この手のじれったさには附いていけないというだろう。

朝鮮はその昔、高麗までは仏教国であったが、室町期に李氏朝鮮が興ってからは徹底した儒教国となって、逆に宗家中国を驚かせた。

漢民族は自らを中華(世界の中心)と称し、決して他国へ攻め入るような不節操はしなかったが、匈奴などの騎馬民族の侵攻に備え万里の長城を築いた。

しかるに隣接する朝鮮は生き延びるための方便として儒教を採りいれ、中国と文化を共有することで身の保全を図った。

そして思惑どおり500年にわたって、中国の忠実な弟分として安全な日々を過ごすことになる。

このため、儒教は中国よりも朝鮮において、完璧なまでに浸透していった歴史がある。

ただ、朝鮮は中国の模倣では終わらなかった。

黒海に興ったスキタイ文明が、中国北方の大草原に住む騎馬民族、匈奴などに受け継がれ、満州を経て朝鮮半島に到った。

こうして猛々しい騎馬民族文化と中国伝来の純朴な農業民族文化がミックスされ、世界に類のない特異な文化が花開いた。

その特異という点にかけては日本も負けてはいない。

アジアの一部とはいえ、まぎれもない孤島であって、この地理的条件が朝鮮との決定的な違いといえる。

ひとには集団をつくる習性があるが、同じ地域に住むものが集まってつくる国家という集団、同じ顔つきの者が集まってつくる民族集団、同じ考えのものが集まってつくる宗教集団、これらは近くに別の集団があってはじめて発生する。

ところがわが国には地続きの隣国がないため、外敵に侵略される危機がほとんどなく、ペリーに恫喝されるまで集団を作る必要がなかったため、国家意識というものが育たなかった。

わが国に独自の思想が育たなかったのは、こういう特殊事情によるともいえる。

ただ、遣隋・遣唐使以来、鎌倉から室町にいたる中国貿易で、わが国の輸入品の第1は常に仏典などの書籍であった。

この時代、島国に閉じ込められた先達の旺盛な知識欲には頭のさがるおもいがする。

こ うしてわが国は、仏教にしても、儒教にしても中国から新知識を譲り受け、自分に都合のいい形に整形して自家薬籠中のものとしてきた。

その結果、正月や七五三には神社にお参りし、お盆や葬式、法事にはお寺へ出向き、クリスマスにはキャンドルを片手にトナカイさんを口ずさむ国民と揶揄されるようになった。

しかし、この宗教的節操のなさが前述の国家事情に起因することは想像に難くない。

かくのごとく、わが国と朝鮮は世界に冠たる特異な文化をもった国である。

しかるに日露戦争後、35年にわたる日韓併合とそれに続く南北分断のために、朝鮮半島の戦後処理は深い傷を残したまま放置されている。

とくにわが国と北朝鮮との関係改善は拉致問題がからんで、困難を極める。

ともあれ、氷点下の北朝鮮で飢えと寒さに耐えかねている人々に罪はなく、金正日独裁の終焉を期待しないものは、もはやいないと思われるが、決め手にみえる”経済制裁”が諸刃の剣になりかねないことは歴史が証明している。

次の一手は誰にとっても頭が痛い。

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