四季雑感/SIKI

スポーツ談義のつもりが

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skeeze / Pixabay


テニス界では、今や18歳のシャラポアが大ブレイクしている。

先日も、浅越は日本を代表してシャラポアと戦っているのに、メディアはひたすらシャラポアを追いかけている。

そりゃああまりじゃないかといってはみても、シャラポアを応援して浅越を振り返らぬ日本人が非国民だという声は聞かない。

国民感情にシャラポアの美貌が勝ったといえる。

国粋主義などというしろものも、一皮向けばその程度なのかもしれない。

美意識は時代とともに推移する。

天平のころは鳥毛立女屏風にみるがごとき丸顔がよいとされ、平安のころは”源氏物語”にある引き目鉤鼻をよしとした。

当時、朝鮮から出雲に美人の原型(ウラルアルタイ系美人)が伝わり、多くの出雲美人が京の公家のもとへ奉公したという。

江戸に入って中期以後は、歌麿の描く細面(ほそおもて)の小股の切れ上がった女性がもてはやされた。

ペリー来航以来、横浜に彫りの深い外国人(コーカサス系美人)があらわれて、以後、そちらへも目移りしているのが現状だといえそうだ。

現代の美意識は、8頭身のすらりとした体形を求めているが、近年確かに、若者の頭部が小さくなり、足が長くなった。

かつて徳川将軍家では260年間、食膳に硬いものはいっさい出さなかった。

おかげで将軍のあごの骨は小児のごとくなり、時代不相応に頭が小さくなったという。

現代の若者は、時の将軍よろしく硬いものをいっさい口にしない。

肉を食べ牛乳を飲み、正座もしなくなったから、頭は小さく足は長くなった。

すらりとした美人が増えるということになれば、骨盤は小型化が進みお産に苦労しそうだが、頭も一緒に小さくなれば母親には朗報で、同慶の至りである。

ただ、頭が小さくなれば脳も小さくなるわけで、人類学的に退化という印象は否めない。

はなしをサッカーに転じる。

最近サッカーの試合前に国歌を歌う光景に出くわすことが多い。

卒業式に君が代を歌う歌わないという議論は毎年繰り返されているが、試合前の君が代に憤慨している人はあまりみかけない。

数万の群集とともにエキサイティングな雰囲気できく君が代は、選手ばかりかサポーターみずからも奮い立たせているようだ。

そこでは君が代が天皇制の復活に結びつくなどという議論は一笑に付されよう。

北朝鮮との戦いは素人目にみても、実力は互角で、どちらが勝っても不思議はない内容にみえた。

北朝鮮はこの試合をいっさい報道せず、日本に負けた直後、かわりに核兵器製造を発表した。

腹立ちまぎれの鬱憤ばらしという、うがった見方もある。

アウエーでは、国交のない地域に選手を送り込むという危険がある。

金正日が浅慮に過ぎれば、負けた自国選手に刑罰を科し、やってきた日本選手の身の保全を請け負わないという無茶もやりかねない。

かつて存在した独裁国家をみれば、金正日のごとき傍若無人は決して珍しくない。

独裁者にとって外国から自分のやり方に文句をつけられるほど腹立たしいことはないだろう。

かつて尊皇攘夷のエネルギーは、一挙に江戸幕府を叩き潰すほどの巨大な力となった。

金正日もこれを利用して、国家ぐるみで外国に対抗しようとしているようだ。

問題は自国民のどれだけが攘夷運動に参加してくれるかだろう。

貧困にも耐える限度がある。

限度を越えて自壊するのを待つという議論もあるが、犠牲はあまりに大きい。

さらに拉致被害者が囚われの身である以上、経済制裁がベストの選択とはとうてい思えない。

妙案の出ないまま、無為に日々が過ぎていく。

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