コロナ禍から見える世界

また3月11日が来た。東日本大震災以来10年、マスコミはこぞって犠牲者のことを忘れないでといっているが、残念だがそうはいかない。我々はだんだんと忘れていくだろう。

親だって、死んで10年もすれば思い出すことが少なくなる。まして他人となると、忘れるなというほうが無理だろう。私たちは忘れてしまう生きものなのだ。

 

でも時々思い出すことはある。その時でいい。

犠牲者の無念を思い出してほしい。そしていざというとき、私たちはどうすればいいかと、思いを巡らせてほしい。

できれば、目に訴えるフィルムがあるといい。持ってなくてもマスコミが流してくれるだろう。それを見て、思いを新たにすればいい。

 

コロナ禍で各々が自宅でひっそり過ごす時間が増えた。

メディアに採り上げられた情報をみていると、相変わらず、政治の腐敗を嘆く声がかまびすしい。だがこれは、古来一時たりとも絶えたことがないといわれる。

怒りの矛先は、庶民から目をそらし、私利私欲にふける政治家、官僚のひとたちで、必ずや鉄槌を下さずにはおかないという意気込みだ。あたかも現代版「水戸黄門」の筋書きをみるようだ。

 

ペーパーがないと答えられない政治家

まずはこんな風景が登場する。

野党の追及に、ひたすら官僚の書いたペーパーを読み上げる大臣。

普通の世界なら、答えを教えてもらった人は、教えてくれた人には頭が上がらない。

ここは尋常の世界ではないとみえる。教えてもらう人が教える人に向かって威張り散らしている。

 

日本では、自分の意見が言えないひとを政治家と呼ぶのだろうかと、皮肉る外国人がいた。自分に考えがあるなら、ペーパーを見る必要はないだろうというわけだ。

人と話すときは、相手の目をみながら話しなさいと、学校では教えている。

政治家になると、しばしばそれを忘れるらしい。質疑応答の場で、彼らはいつもうつむいて話そうとする。カンニングペーパーは机の上だから、自然と下を向くのはやむを得ないにしても、それが常態化し、恥ずべき行為とは思わなくなっている感覚が怖い。

 

黒塗りされた行政文書

2016年、森友学園への国有地売却に関し、財務省理財局から近畿財務局に対し決裁文書改ざんが大々的に指示、実行された。

しかし、誰が何のためにおこなったかに関する行政文書は、ことごとく黒塗りされ、真実は闇に葬られた。

黒塗りされた文書は、この国の闇を国民の前であからさまに示すこととなった。多くの人が自分たちの知らないところで、なにか恐ろしいことが進行しているのではと危惧した。

犠牲者が出ているというのに、真相を明らかにせず、誰も罪に問わない理由は、黒塗り行政文書のなかに凝縮されている。

国を守るためなら嘘も方便という空気が許容され、政治家は自分のためにも平気で噓をつくようになった。

ウーン、じつにこれが民主主義国家を標ぼうする日本の姿なのだ。

 

昨今は総務省の接待問題が世間を賑わせているが、もはや官僚の虚偽答弁には誰も驚かない。この手のニュースにはもうみんな慣れっこになっているからだ。

でも、かりに自分が総務官僚になったとしたらどうだろう。

人事権を握っている上司の息子に誘われたら、出ていかないわけにはいかない。いやむしろ、張り切って出かけるだろう。将来の栄進ばかりでなく、自分の家族を守るためにも出かけなければならないと言うのではないか。

われわれは、止むにやまれぬ理由さえあれば、接待をうけるのに何らやぶさかではないのだ。

 

本気でそれを止めさせようというなら、国会で虚言発言した途端、議員も官僚も職を失うという法律をつくればいいのだが・・

でも実際には、そんな法律が審議、可決されることはないだろう。彼らが自分で自分の首を絞めるようなことは決してしないからだ。

 

いじめと自殺

政治論議が終わると、今度はいじめによる自殺問題が俎上にあがる。

いじめで児童が自殺すると、決まってマスコミに登場するのが教育委員会だ。

「文科省が言っているいじめに該当するでしょうから、いじめはあったと思っています。学校は、児童の亡くなるまでいじめがあったという認識がなかったというから、なかったのだと思います」

本気度を疑う声明だが、教育組織を守ろうとすると、こういう答弁になるらしい。

亡くなった子と一見識もない教育委員会が、マスコミに対しいじめがあったかどうかを説明する構図は、尋常でない。

子を持つ親から見れば、教え子が自殺したのに、校長も担任教師も隠れて息をひそめているのは異様である。いじめはなかったと言うのなら、どうして隠れて出てこないのか?

昔から、教育委員会がいじめをうけた生徒・家族を助けたというニュースはあまり聞かない。

教育委員会が守りたいのは生徒ではなく、学校と教師の体面なのかと叫ばれて久しいが、一向に変わらないのは、変えてはまずい何かがあるのだろう。

 

それより、自殺させるほど相手を追い詰めるというからには、悪逆非道の児童なのかというと、とんでもない、ごく普通の子だという。単に、面白半分でからかったとか、みんなでいじめるから、ついついエスカレートしてしまったなどという。

みんなでやれば怖くないといういじめの本質をついている。

子供の心は純粋などというが、純粋とは危険で怖いものだ。単純なだけで、そそのかされると、何でもする。弱みを見せると、待ってましたと駆け寄って、平気でいじめに参加する。

子供たちの頭には、いじめなければ、逆にいじめられるという恐怖が下支えになっているというのだが、はたして教師は今後どういうふうに子供たちを指導していけばよいか、悩ましい問題だ。

 

分別ある?大人たち

視点を変えて、誰でも大人になれば分別はできるだろうかというと、どうもそのへんも疑わしい。

米軍基地の7割以上を沖縄に集中させ、彼らの苦痛を直視しない本土の人々はどうだろう。

今更近くに来て米軍機を飛ばされたんでは、たまったものじゃないなどと放言する日本人は決して少なくない。

3.11で故郷を逃れてきた人々を、ゴミだ、バイ菌だといって、蔑視した大人子供がいかに多かったか。

コロナ関連の医療、介護従事者に、感謝どころか近寄るなと差別発言する人々も、依然として絶えない。

ところが、かくのごとき暴言を吐いているのはごく普通の市民で、平時にはいわゆる「いいひと」といわれている人たちだ。

ひとは恐怖に駆られると、自分を守るため、発作的にひとを傷つける言葉を発してしまう、了見の狭い生きものなのだ。

 

動物たちの生殺与奪

さらに視点を変え、なんの疑問も持たずに過ごしている食文化に目を向けてみよう。

「今日の刺身は活きがいい」と舌鼓みする私たち。だがよく考えると、ちょっとおかしい。

カツオやサンマは殺していいが、クジラは殺すなという。タコやイカは殺していいが、イルカは駄目だという。

彼らに言わせれば、そんな理屈には納得できないというだろう。

 

一方、牛や豚は殺していいが、犬や猫は駄目だという。

牛や豚には死んでもらわないと、我々には食べるものがなくなる。犬猫は愛玩することにしたのだから、殺して食べるなど、とんでもないという。

じつに彼らの生殺与奪は、私たちの胸先3寸にかかっている。

焼肉に舌鼓をうちながら、子供たちに命の大切さをどう説けばいいか、まじめに考えると頭のなかは混乱の極みとなる。

しかし私たちはこの矛盾に苦悩するわけでもなく、心の底では、自分たちさえ良ければいいと考えている情けない存在なのだ。身に危険が迫ると、他人はともかく自分だけは生き残ろうとするものだ。

 

私たちには、人を攻撃する前に、お前はどうなんだと自問自答する時間が必要だろうとおもう。

そうすることで、世の中は幾分、潤いを取り戻せそうな気がする。

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