幕末

興味深い外国人

サルトルの実存主義

サルトルが愛人ボーヴォワールを伴って我が国を訪れたのは、1966年9月のことである。 その6年前、日本政府は敗戦による属国扱いから抜け出そうと軍備を増強し、米国と対等の地位獲得をめざしていた。その結果、岸内閣によって新安保条約が強行採決され...
興味深い外国人

ハイデッカーの実存主義

「良心は常に、沈黙という形で語る」 「単純なものこそ、変わらないもの、偉大なるものの謎を宿している」 「限られた時間でより多くのことを知り得ていくには、複雑なことを複雑に学んでいくより、シンプルの先にあるものを学ぶことが必要だ。」 味わいの...
明治

山陽線 鉄道敷設秘話

「青年時代の失敗体験は、将来の成功の尺度となる。すなわち、失敗をどう思ったか、いかに対処したかで彼の生涯は決まる。」 そう言ったのは、普墺・普仏戦争を制し、「ドイツ陸軍の父」といわれる参謀総長モルトケである。モルトケは当時の先端技術「鉄道」...
四季雑感

稀有な体験

地震で家が倒壊したのが、出掛けた直後だったとか、墜落した飛行機に乗り遅れたため九死に一生を得たなどというニュースを聞くたび、たまには、そんなことも起こりうるだろうとは考えるのだが、それが何度も繰り返すとなると、偶然だとはいえない何かを感じる...
幕末

アーネスト・サトウの見た日本

慶応2年(1866年)、横浜で発行されていた、週間英字新聞「ジャパン・タイムズ」に匿名で掲載されたある論説が、徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳され、「英国策論」と題して出版された。 日本が国際社会に登場するためには、今の幕藩体制ではだめで、...
日本人の宗教心

神をとるか仏をとるか

もともと我が国の神は自然崇拝から発したもので、八百万の神々が山川草木至る所、家のなかにもおられるという。 古代人は神のおはしますところを掃き清めて祈りを捧げ、感謝や心の救済を願っていたとおもわれる。 ところが7世紀にいたり、アマテラスを押し...
江戸時代

杵築(きつき)藩家老・大原氏

別府から国東半島へむかって北へ30キロ走ったところに、杵築市はある。 鎌倉時代、豊後の領主・大友氏の一族が八坂郷木付荘を統治し、地名の木付(きつき)をとって姓とし、築城した。それが木付城の始まりである。 木付城の城主はその後、何度も入れ替わ...
江戸時代

井伊の赤備え

井伊直政と赤備え軍団 武田の猛将、山県昌景が赤備えで天下に名をはせたが、武田家滅亡のあと、家康は武田家旧臣を多数召し抱えた。かつて家康自身、三方ヶ原で完膚なきまでに打ちのめされた思い出がある。その象徴ともいうべき赤備え軍団を手中にしたかった...
戦国時代

太閤はんの大阪城

その昔、大阪の地は海のなかにあった。そのなかで南北に丘陵をなす上町台地だけが、半島のごとく海に突き出ていた。台地が盛り上がったのは、豊中から岸和田に至る断層の動きによる。 上町台地の東側にある河内湾と西側の大阪湾には、長い年月を経て、淀川・...
江戸時代

武士の給料

江戸時代、1万石以上の知行地をもつものを大名といい、それ以下の幕府直参を旗本、御家人といった。 旗本は200石以上、将軍へ御目見えできる者で、御家人はそれ以下の給与所得者である。旗本は知行地を治める能力があると認められ、知行取りと呼ばれた。...
幕末

尊王攘夷

江戸時代、庶民にとって仰ぎ見るのは徳川将軍家であって、京にいる天皇ではない。 この時期、幕府には800万石の収入がありながら、朝廷は幕府からわずか3万石を付与されるだけで、生きながらえている状況である。天皇は京都御所で息をひそめており、庶民...
海外紀行

オランダ・ライデン紀行

16世紀は「太陽の没することなき国」スペインの時代である。 スペイン・ハプスブルグ帝国の盟主・フェリペ2世はプロテスタントという疫病からカトリックを守る守護神であり、カトリック世界の期待を一身に集めている。 我が国では織田信長の時代にあたる...
日本人の宗教心

儒教精神

突然、君は儒教の教えに従って生きているかと問われたら、とんでもないと答えるだろう。 そんなことは考えたこともないというだろうが、親孝行をしなければとか、弱いものには思いやりをもって接するとか、嘘はつかないとか、目上のひとには礼儀正しく接する...
日本人の宗教心

仰いで天に恥じず

天は中国に源を発する。 ひとは天命に従わねばならず、これに逆らうとお天道さまが見ていて、天罰を下すという。 西郷の「敬天愛人」、漱石の「則天去私」もこれから来ている。 “孟子”に「仰いで天に愧(は)じず、俯して人に愧(は)じざるは、二の楽し...
四季雑感

自殺のはなし

このところ毎年、自殺する人の数が約3万人とほぼ横ばいだという。 自殺未遂者はさらにその10倍以上という。 ともかく10年間、だれが決めたわけでもないのに毎年3万人ずつ自殺するというのだから、奇妙だと思わないわけにいかない。 文献によれば、若...
幕末

松陰の死生観

「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北...
幕末

勝海舟の見識

勝が西郷隆盛と初めて会ったのは元治元年(1864年)9月、大阪である。 西郷は第1次長州征伐で幕府の消極的な戦闘準備を不満とし、軍艦奉行である勝の意見を求めに来た。 このとき勝は、今は自分の藩の利害などを考え内部抗争しているときではない。 ...
幕末

竜馬と象二郎

慶応3年の土佐藩はとりわけ多忙である。 その年の1月、後藤象二郎が長崎にやって来たのを知った亀山社中の面々は、竜馬に土佐勤王党の仇敵である彼を斬ろうと気色ばんだ。 ところが実際竜馬が会ってみると、意外にも馬が合った。 仇敵でありながら意気投...
幕末

“そうせい侯” 毛利敬親(たかちか)

米国との通商条約を朝廷の許可を得ずに結ぶとは何事かというのが水戸・尾張・越前藩主ら一橋派の抗議である。 安政5年4月、大老となった井伊直弼は、話しの内容はともかく彼らが許しも得ずに登城したのは不敬の至りであるとして、強引にも彼ら全員を隠居、...
幕末

水戸学のジレンマ

水戸家は徳川御三家の一つで、唯一江戸に常勤し将軍を補佐する副将軍である。 その水戸家が幕末にいたり、将軍家にとって獅子身中の虫になってしまった。 すなわち水戸学なるものがあろうことか、倒幕派の思想的支柱になったのである。 その発端は水戸黄門...
幕末

島津久光のジレンマ

万延元(1860)年桜田門外の変で井伊直弼という強烈な個性を失って以来、幕府は政治の舵取りを失い迷走状態となった。 さらには外国の威圧に腰砕けとなって、さかんに朝廷の顔色を窺うようになった。 公武合体はこの弱腰からでた理屈で、もはや幕府が自...
幕末

切腹の美学

土佐勤王党の領袖・武市半平太が壮烈な三文字腹で切腹したのは、慶応元年5月、陽が落ちて篝火の焚かれる時刻であった。 土佐勤王党は武市が”一藩勤皇”を唱え、下級藩士・郷士200名を擁して成立した。 これに対し土佐藩参政・吉田東洋は、安政の大獄の...
幕末

村田蔵六(大村益次郎)の武士道

適塾は医学塾というより蘭学塾である。 医師緒方洪庵が診療と平行して開設したものである。 その人情味溢れる教育指導は全国に鳴り響き、門弟は延べ3000人を数えたという。 幕末、西洋を知るには蘭語だけがその糸口であり、ペリーの恫喝に驚いた若者の...
明治

廃刀令の皮肉

剣術は戦国期以来、沈下していたが、幕末にいたり一気に興隆し、江戸市中には500の剣術道場ができたという。 ところが明治維新とともに再び剣術は廃れた。なにより廃刀令である。 ちょん髷を切り着物も草履も脱ぎ捨てれば、洋服に革靴を履いて刀をさすわ...
幕末

桂小五郎(木戸孝允)の英知

先般、料理名人のS氏から出石そばをいただいた。 彼自身蕎麦打ち名人であるから、不審な顔をすると、その昔彼が修行に行った先だというから相当なものと判断した。 出石そばの出処は信州である。 徳川中期、松平氏に代わり国替えとなった信州上田の千石氏...
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